『2025年』

鈴木剛介 著

2020/06/10---2020/06/11

*たった3枚なので、すぐ読み終えることが出来ます。「5年後の暮らし(社会/世界/未来)って、どうなっているのだろう?」と自問自答してからページをめくると、楽しんで頂けるのではないかと思います。
 
 
「行って来ます」と母さんに声を掛け、玄関のマスク掛けからマスクを外して装着し、家を出た。朝、8時15分。弟の春馬は、とっくにバスケ部の朝練に行っている。母さんはテレワークで、年に一回、年度終わりにしか出勤しない。父さんはいない。父さんは、5年前、緊急事態宣言が発出された直後、肺炎で死んだ。とてつもないヘビースモーカーだったから、重症化のスピードが速く、入院して二日後には会えない人になった。完全隔離状態だったから、誰も死を看取っていない。葬式も出さなかった。ピアノの上にある父さんの遺影は、頭が真っ白で痛々しい。父さんの話は止めよう。あまり幸せとは言えない人生を送った人だから。
 スマートフォンで胡桃(くるみ)に「今、家を出た」とラインする。「もう、着いている」と、すぐに返信がある。
 最寄り駅のJRお茶の水から、大学がある四谷まで、5分だけ電車に乗る。電車からシートが撤去されたのは、1年前くらいだろうか。電車の天井から、距離を開けて吊り革が下がっており、その吊り革の数が、定員。電車の利用が定員制になってから、屋根付きバイクを利用する人がすごく増えた。僕は自転車で通学することも可能なのだけれど、雨天と晴天で乗り物を使い分けることが性格的に嫌なので、電車で統一している。
 四谷で降りて、3分歩いて、大学の正門をくぐり、7号館の前のベンチにいる胡桃の隣に座った。
「待ちました」と胡桃が言う。
「待たせました。ごめんなさい」と僕は言った。
 当たり前だけど、お互い、マスクをしている。付き合い始めて3カ月経つけど、まだ胡桃に触れたことはない。今は、確実に結婚が決まった相手としか、触れ合うことは出来ないし、キスもしない。それが通常のマナーだ。もちろん、マナーを破る人もいるけれど、そういう不純異性交遊をする人たちは「不良」と呼ばれる。第二波が来た直後、濃厚接触をしていた男女から全国各地で大規模なクラスターが発生して以降、男女の交際は、非接触が原則になった。だから、僕と胡桃も、健全にテレセックスしている。テレセックスに慣れてしまえば、身体を触れ合わなくても充足出来ることを、僕たちは知った。生身の男女が濃厚接触するのは、不潔で危険で気持ち悪いこと、という生理的嫌悪感が、僕たちの世代にはある。
「浅神(あさがみ)、朝ごはん」と、胡桃がリュックからサンドイッチを取り出して渡してくれる。相手に手を触れないように気を付けながら、それを受け取る。
「ありがとう。でも、苗字で女の子に呼び捨てにされるの、いまだに慣れない」僕は苦笑する。無視して、胡桃は続ける。
「浅神、いつも、お腹すかせているよね」
「うん。朝ご飯は食べて来たんだけどね」
「いつも、お腹をすかせている男の子って、実は母性本能をくすぐるんだよ。知ってた?」
「知らなかった」
「その代わり、夕食はご馳走してよ」
 胡桃はあまり笑わない。いつも、真面目な顔をしている。でも、そういうところが、テレ合コンの時に、僕の気を引いた。
 第一波のパンデミックの時に叫ばれたのは、医療崩壊だったけれど、第二波の時に騒がれたのは大学崩壊だった。交友関係を増やす、という目的から高校までは需要があったのだけれど、オンラインで講義が受講出来てしまう総合大学はキャンパスを持つ必然性を失い、結果、国公立私立を問わず、破綻する大学が続出した。それは、日本国内だけでなく、世界的な現象だった。象徴的だったのは、MIT(マサチューセッツ工科大学)が破綻したこと。MITに進学を希望するような専門的な知能を持つ優秀な高校生たちは、みな、起業する側に回った。
 僕が入学した、四谷にあるこの大学も、もう、四年生総合大学ではない。今は、実技を伴う専門性の高い授業のある科目しかキャンパスを持たない。僕も胡桃も、ここでデザインを3年間、勉強する。今日は、講師から直接対面して指導を受けることの出来る、週に一回の貴重な授業だ。
「最近、ホームレス、見なくなったね」
 胡桃がリュックから、自分の分のサンドイッチを取り出してかじる。
「うん、そうだね」と僕は答える。
「若くて、こざっぱりしたホームレスも多かったから、見ていて辛かった」
 胡桃は、真面目な顔で僕の眼を見る。
「すべては、レブロンのお陰だよね」
 2020年の夏、経済活動が再開して、ワクチンもほぼ完成し、世間は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という状況で、楽観ムードに包まれていた。けれど、翌年の秋、冬に、変異したウイルスによる第二波、第三波が襲来し、再び、世界中の都市がロックダウンされ、世界経済は、1929年の世界恐慌以上という状態にまで落ち込んだ。その状況を救ったのが、弟・春馬の憧れの選手であり、昨年、引退した、NBAのスーパースター、レブロン・ジェームズだった。今では、マイケル・ジョーダンではなく、レブロン・ジェームズが「神様」と呼ばれている。
 空を見上げる。7月の日差し。まぶしく鋭い太陽の光。でも、今日は湿度が低く、爽やかな暑さだ。胡桃は、涼しげな顔で、サンドイッチを食べている。真面目だけど、涼し気。淡々としているけれども、暗くはない。胡桃と一緒にいると、気分が落ち着く。
 胡桃が無言で、紙パックの野菜ジュースを渡してくれる。
「サービス、いいね」
 僕が言うと、「今夜は、焼き肉が食べたい」と彼女は答えた。
 
 夕方、授業を終えて、二人で四谷の新道通りにある焼き肉屋に行った。遊園地、動物園、水族館、競技場は興行しているけれども、劇場、ライブハウス、カラオケボックス、ネットカフェは消滅した。遊びに行く場所の選択肢はあまりない。接待を伴う夜の業態は、昼間に営業する「ホストカフェ」「キャバカフェ」「クラブカフェ」へと姿を変えた。東京オリンピックが中止されたことを契機に、リアル・スポーツの競技人口は激減し、プロ・リーグは細々と活動しているけれど、テレビ中継されるのは、eスポーツだ。
アクリル板越しに向かい合って座り、会話を交わすことなく、黙々と肉を焼き、黙々と食べる。家族以外の人と、食事をしながら会話することもマナー違反だ。マスクを外している状態だから。
 肉体関係がなくなってから、男女関係の線引きがあいまいになり「彼氏」「彼女」「恋人」「コクる」「付き合う」という言葉は死語になった。僕と胡桃も、仲良しではあるけれども「彼氏」「彼女」という感覚はない。生涯未婚率は男女共に60%を超え、今、日本の総人口はおよそ、5900万人。その数字が「ゼロ」になる日が、いつか来るのだろうか。
 社会から経済的な格差はほとんど消えた。それは、素晴らしいことだと思う。大不況の真っただ中、レブロンは、カリフォルニア・オークランドにあるオラクル・アリーナで、自動車一台分の大きさの現金を積み上げて、列をなしてやって来る貧しい人たちに、直接、1000ドルずつ手渡した。レブロンの財産には、もちろん限りがあったけれど、その様子は、SNSであっという間に拡散し、世界中のセレブが同じ活動を始めた。世界には『フォーブス』誌には掲載されないような、想像を絶する金持ちが存在していることを、世間は初めて知った。財政破綻寸前まで追い込まれていた各国政府は、追認する形で、贈与税を改正し、個人が個人にお金を与え、助ける、という潮流が生まれた。そのムーブメントは「ジェントル・エコノミー」と呼ばれ、日本では「思いやり主義経済」と訳されている。お金が余っている人が、お金がなくて困っている人を救う。そんな当たり前の行為を、世界中に気付かせてくれたのは、レブロンだった。
 会計を電子決済して、お茶の水駅で別れる時、僕は胡桃に言った。
「後でラインするよ」
「じゃあ、また来週ね」
 キスもハグもなく、手を振って、さよならをする。
家に帰り、母さんに言った。
「ただいま。あのさ、母さん、今夜、父さんが遺した仕事と向き合ってみようと思う」
「どうしたの、あんなに嫌っていたのに。心境の変化があったの?」
 母さんは、端末から顔を上げて、笑った。
「今日、胡桃と会って、無言で食事して、それで、こんな暗い社会は嫌だ、と思ったんだ。父さんは、世界を救済する、と言っていたんだろう?」
「まあ、そう言ってはいたけどね。母さんには、そうは思えないのだけど」
「自分の眼で確かめたいんだ」
「分かった。それはそれで、天国のあの人も喜ぶとは思う」
 母さんは、端末にネット画面を開いて、アドレスを打ち込んだ。
「これよ」
 それは、僕が初めて見るサイトだった。
 
[了]