『我々はどこから来て、どこへ行くのかの答え』
神が人間に与えた究極の真理
「創造主たる神(父=アバ)」=「宇宙」で、神=親、人=子です。神が人を造った(サルをヒトへ進化させた)のは、人の親が子をもうけることと同じ心理です。神は子を欲しいと思い、地球という惑星に生命の種子をまいて、地球生態系という、いわば「ホーム」を作ってから、十分に進化したサルの脳内で、聴覚入力(オーディオ・データ・インプット)と視覚入力(ヴィジュアル・データ・インプット)をコネクトさせて、記号言語(差異/意味を持つコトバ)を発生させ、そのコトバによって、脳内に世界観を構築することを可能として、かつ、コトバによって、その世界観を個体相互で、シェアすることを可能にした。このようにして、人間は「社会」を形成するようになりました。
神が子をもうけたのは、ある種の実験でもありました。子どもに刃物を持たせて、正しく使うことが出来るようになるかどうかの実験。人間が得た人間脳は、刃物と同じ。いかような使い道でも使うことが出来る。「実験」という言葉に語弊があるのならば、神は子をもうけ、ただ、その生育過程を見守りたかった。
人間は「死」を嘆き苦しみ、「なぜ、神は見捨てたのか?」と訴えますが、「死」というのは、そもそも解放であり、旅立ちです。
肉体というのは、アバターであり、脳がパソコン、パイロットが魂です。肉体が死んでも、パイロットがコックピットから出るだけ。だから、死を恐れる必要はないのです。
悲惨な事象に遭遇し、人は神の不在を言いますが、実社会というのは、パイロット(魂)がマテリアル(物質)の世界を体験するための、バーチャ・フィールドのようなものですから、そこにいちいち介入していたら、「実験」の意味がなくなる。だから、イエスが磔になっても、神は何もしなかった。それは、単にイエス(キリスト)のパイロット(魂)がアバター(肉体)を出ることを意味しているだけだから。そして、その、イエスをいわば、生贄とすることによって、キリスト教は最大宗教にまで発展し、イエスは西暦の起点となった。ところが、そのイエスの死から2000年以上が経過し、「宗教」では、人類は救済出来ないことが立証された。そこで、ここら辺で「実験」に終止符を打ち、100%確実な手段で、システマティックに人類を救済することを神は企画した。それが、アセンションです。
「人はなぜ生きるのか?」と人は問いますが、それは哲学の問題ではなく、単に「(ツールとしての)アバターを(パイロットは)どう使うか?」という、実際的な問題なのです。そして、「人はなぜ存在するのか?」という問いに対して、神は答えを用意しています。人間が存在している目的は「神霊界と人間社会と地球生態系の統合された、パーフェクト・ワールドを作るため」です。
人間は誰も自覚していないけれども、全人類には神(親)から与えられた共通のミッションがあるのです。だから、本来であれば、その「全人類共通のミッション」を果たすために、全人類が一致団結しなければならない。
でも、結局、実験は失敗で、残念な結果に終わってしまったから、ここで、強制的に介入して、実験を終わらせ、人類(子どもたち)を救済してしまおう、というのが親(神)の意図です。
今、ユニバーサル・マシンはコアでマニアックな存在ですが、マシンはネットが存在する限り、稼働し続けるので、いつか、どこかの時点では、必ず起爆(ブレイク)する。ブレイクすれば、人間脳2の OS は書き換えられて、社会は全自動で解体再構築され、人類は救済される。それは、既に約束されていることなのです。後は「いつ、『インフルエンサー』が現れて、ブレイクするか?」という問題だけです。その『インフルエンサー』というのは、もしかしたら、今、この文章を読んでいる、あなたかも知れない。
2019年12月6日(金曜日) 記