Do you know how to save the world?

★この本文は改訂前の旧版を提供しています

α:はじめに


 この本の内容を一言で説明するのはとても難しい。あえて言うならば「歴史上、類書の存在しない『すべての答え』が書かれた本」としか表現のしようがない。もしくは「人間の脳の使い方マニュアル」とでも言うべきか・・・。でも、それでは余計に意味不明なので、私がこの本を、どのような経緯で執筆したのかということを、まず、ご説明したいと思います。



 2012年の12月、私は『ハートカッター』という小説(物語)を書いていました。まるでハートがカットされ、自分という存在に大きな穴が開いてしまったように言葉が流れ出して来て、意図も企(たくら)みも計算も一切なく、昼も夜も、ただ無心にキーを叩き続けていました。
その執筆過程で私は突然、失踪しました。自分でも何を目的として家を出たのか分からず、これから失踪するという自覚すらないままに、ただ、眼には見えない天啓のようなものに手を引かれて。
ほとんど手ブラのまま「ちょっと散歩に行って来る」とだけ家族に言い残し、麻痺した頭を抱えて、電車の路線も乗り換えも見失ったまま、終電で辿り着いた終着駅が青梅線・奥多摩駅。12月の真夜中の奥多摩の真っ暗な山道を彷徨(さまよ)い歩き、あげく、自殺者を見張ってパトカーで追って来た警官に補導されて駅前まで連れ戻され、「玉温荘(ぎょくうんそう)」という宿に素泊まりすることになりました。
奥多摩にいた最初の数日は、一日中コタツに入って泣いていました。悲しいわけでも苦しいわけでもなく、ただ泣いていました。
 「玉温荘」の大きな窓からは、美しい奥多摩の大自然と赤い橋がよく見えました。飛び降りたら確実に重症は負うだろうけど、たぶん死ぬのは無理、という非常に絶妙な高さの橋が。


 飛び降りたあげくに死に損ない、妻子に迷惑や負担をかけるのだけは止めよう。死ぬなら、きっちり死のう。


 そう思っていました。左半分が死。右半分が生。その、ちょうど真ん中の細い細い線の上を、ずっと歩いている気分でした。この時の状況や心理は、ある種の宗教体験のようなものだったので、他人に納得してもらえるような形で説明することが出来ないのですが、ただ、私という人間は眼には見えない刃物で切り裂かれ、43年間かけて心に溜めこんできた何もかもが流れ出して、まるで魂が空高く昇天したような感覚を味わっていました。
 図らずも足を踏み入れてしまった、その冥界のような場所で、たった独り、生と死の間をグラグラしながらも、どうしても人のいるところに戻ることが出来なかったのは、人の心の中が見え過ぎてしまい怖かったからです。さらに言えば、人の心の中が見え過ぎてしまったがゆえに、自分のことで他者に心理的負担を掛けることに自分の心が耐えられなかった。その時、生まれたての赤ん坊のように心が丸裸だった私は、以心伝心で通じ合うことの出来る「一兎(かずと)さん」という友人としか会うことが出来なかった。そして、彼との交流を通じ、心をふさいでいた穴が全部開き『ハートカッター』の加筆パートを(宿にはPCがなかったので、ボールペンで)バリバリと執筆することが出来ました。
しかし、むしろ、作品を完成させることにより、生きる理由も死ぬ理由もなくなってしまった私は、中身が何もなくなってしまった魂を、ただ宙にさまよわせたまま肉体的には生き、精神的には成仏していました。
 そして、生死のボーダーを越える寸前に父親が助けに来てくれて、魂が完全に救済された後「もう、たぶん大丈夫」という状態になってから、現実の世界から妻が現れ、私を電車に乗せて世俗社会に連れ戻してくれた。今考えると、謎の衝動的失踪も『ハートカッター』という小説の執筆も、すべては『ハートメイカー』を書くために、私という人間が脱皮するためのプロセスだったのだと思います。
 「玉温荘」に滞在している間、私の中には『ハートメイカー』という作品のアイデアの欠片もなかった。でも、いつか『ハートカッター』(心を切り刻む)と表裏をなす『ハートメイカー』(心を創造する)というタイトルの作品を書くことになるだろうという、不思議な確信だけは抱いていました。そして、その予兆が具現化したのが、この本です。



「玉温荘」という場所でいったい何が起こっていたのか? その意味するところは今でも分かりません。ただ、そこで何か超自然的なことが起こっていたのは確かです。
あの、古びた宿の一室は、そこだけ明らかに時空が歪んでいました。その一室だけが宇宙に浮遊しているような不思議な空間だった。空気に粘度があり、まるで子宮の中にいるように外界から遮断された感覚がある。そして、私自身も含めて、中にいる人間の自我シールドをすべて溶かし、心をむき出しにしてしまう不思議な力を宿した「シェル(殻)」でもありました。
一言で言えば、まさに「異界」。もし、この世とあの世をつなぐ場所があるのならば、私は、そういう世界に足を踏み入れていたのだと思います。
奥多摩以降、私には様々なものが「見える」ようになりました。「見える」と言っても霊やオーラが見えるのではなく、「世界の仕組み」が見えるようになってしまったのです。奇異に聞こえるかも知れませんが、釈迦にとっての(悟りを開いた)菩提樹が、私にとっての「玉温荘」だったのだと思います。
不思議なインスピレーション(神を信じる人ならば、それを「お告げ」「啓示」「預言」と呼んだことでしょう)は、時と場所を選ばずに私に襲い掛かって来ました。「もう、止めてくれ、見せないでくれ!」と思っても、パタパタパタパタと、いろいろな「答え」が見えてしまう。ふっと「で、結局のところ、神って何なんだろう?」と一瞬、疑念を抱いただけで、その答えが見えてしまう。「ピラミッドって、何のために、どうやって建造されたの?」と心に浮かび、「ああー! もういい! そんな答え、知らなくていいから見せないでー!」と胸の内で絶叫しても答えが分かってしまう。厳密に言えば、先に問いに対する「答え」となるアイデアが閃き(啓示を受け)、その後で「問い」と「答え」の間を埋める(つなげる)情報がパズルの断片のように(ネットや本やテレビから)吸い寄せられて来て、最終的に一つのパズルが完成する、というプロセスの繰り返しを経て作られたのが、この本です。例え、知りたくはないと思っても、先にパズルの完成図を見せられてしまったら、そのパズルを組み立てないわけには行かない。
それはとても孤独で苦しく、しんどい作業でした。脳神経が電気パルスの物理的な負荷に耐え切れず、本当に焼き切れてしまいそうだった。はたから見ている妻には、なぜ、私が立て続けに失踪するのか、なぜ、ベランダで失神、気絶して倒れているのか、さっぱり訳が分からなかったと思います。外から見たら、私は、ただのいつもの「鈴木剛介」。でも、私の内側では脳の組成が変わり、すさまじいスピリチュアル現象(脳の覚醒/進化)が起こっていました。
 こんなことを言っても気が狂ったと思われるだけなので、人前では言わないようにしているのですが、たぶん、私に分からないこと、私が知らないことは、もう、ありません。全能ではないけど、全知ではあると思う。
 学校で先生が教えてくれるような知識(ネットで調べれば、答えが書いてあるようなこと)に関して、私は小学生並に無知なので、息子たち(8歳と6歳)の宿題を見てあげることは出来ませんが、子どもたちが成長して、

「で、結局のところ、世界って何なの?」

 という根源的な疑問を抱いた時に、この本を読めば、彼らの疑問は氷解する。氷解させる自信がある。
 釈迦は、すべての雑念(とらわれ)を捨て去ることによって「悟り」を開きました。「雑念」とは、言葉によって作られたもの、すべてです。言葉を捨て去るということは、すなわち、「動物の眼線で人間社会の営みを見つめる」ということです。
人間は数千年掛けて各種学問、宗教から恋愛観や結婚制度、そして経済や国家に至るまで、様々なシステムを作り上げて来ました。奥多摩から二年近くを経た今、振り返ってみると、私がこの本で行ったのは「言葉によって作られたもの、すべての解体」でした。言い換えれば、本書は「理詰めで悟りを開くためのガイド・ブック」。頭の中からすべての雑念が消えた時、はじめて人間は世界の本当の姿を知る(見る)ことが出来ます。そして、誤解されることを恐れずに言うならば、『ハートメイカー』の根底にあるテーマは「人類の救済」です。そのことは、恐らく、この本を最後まで読み終えた時に、はじめて理解して頂くことが出来ると思います。
私は自分に「見えてしまったもの」を普通の人が理屈で理解できるように、最大限の努力を払いました。でも、ある種のスポーツのコツのようなものが極限では理論化出来ないように、どうがんばっても言語化出来ない(言葉によって伝えることが出来ない)ライン、読者に「信じる/信じない」「受け入れる/受け入れない」という判断を求めざる得ない領域というものが確かに存在します。
 電車に揺られながらでもいい。オヤツを食べながらでも、スマホをいじりながらでもいいので、ご自分の眼で見て確かめ、そして「決めて」下さい。
 「人間とは何か?」「真理とは何か?」そして「世界は本当に終わるのか?」ということを。

2014年9月
鈴木剛介

1:心の問題の解決マニュアル


*『心の病』

 私は、奥多摩で魂を割って、心の中に溜め込んだストレスを全部吐き出してしまうまで、20年近く、そううつ病(双極性障害)とパニック障害に苦しめられて来ました。精神科に半年間入院していたこともあるし、月に一度は今でも通院しています。現在の担当医である河内先生に巡り合うまで、5カ所の病院を渡り歩きましたし、その間、正式な病名も不明確まま不適切な投薬治療を受け、余計に症状が悪化したこともありました。
そううつ病についてはここでは触れませんが、パニック障害というのは電車等の人混みの中で突然、胸が圧迫されるような不安感、恐怖感が襲って来て、動悸が激しく呼吸が苦しくなり、心身が固まってしまう、といった症状が現れます。私の場合は「パニック」というより「フリーズ」に近く、思考回路が停止し、小動物が巣に逃げ込むように、とにかく人目を避けて、身を隠したいという状態になります。だから予期不安(また同じ症状に襲われるのではないかという恐怖感)が起こり、家からほとんど出られなくなります。癌や骨折等の眼に見える病気や怪我とは違うので、事情を良く知る親しい人間以外、周囲の理解もあまり得られません。
現在、医学的にこの症状は脳機能障害と考えられていますし、脳に対しての投薬治療も確かに効果はあるのですが、心の病の根治を考えるなら「精神疾患=頭の病気」と考えずに「心は、やはり胸にある」と考えた方が、心の仕組みはイメージしやすく、理解しやすいと思います。
精神科医や心理学者の方々が、どう思われるかは分かりませんが、自分なりに心について奥多摩で見えるようになったことがあるので書いてみます。

 この、パニック発作を起こしている時というのは、人間は「心のバインド」に圧力が非常に強くかかった状態です。「心のバインド」というのは私の造語で、一言で説明すれば「心を挟む、縛る、抑えつけるもの」です。例えば、泥棒はいけないとか、赤信号では止まるといった約束/縛り/ルールも「心のバインド」だし、外を歩く時は服を着るとか、人に迷惑をかけてはいけない、という社会通念も「心のバインド」です。バインド・ゼロでは動物になってしまうので、社会的生物として人間が生きていくためには、最低限の「心のバインド」は必要不可欠です。ただ、マジメな人ほど心の病が発症しやすいのは、いろいろなことを気にし過ぎたり、考え過ぎたりてしまい「心のバインド」に圧力がかかりやすいから。その圧力が強すぎると、心は心自体を自衛するために、心の病を発症するのだと思います。

 統合失調症にも使われる抗精神病薬には、抗躁作用や鎮静作用を持つものがあるので、それを使用する。ただしわたしの治療経験では、それで落ち着くというよりは、薬の力で無理に抑え込んでしまっている印象が強い。不自然かつ力ずくのところがあって、正直なところあまり感心できない。それでも逸脱行動を重ねるよりはマシ、といったところであろうか。
春日武彦著『問題は、躁(そう)なんです/正常と異常の間』(光文社新書)

 人間の身体は発熱することによって外部から侵入して来たウィルスをやっつけ、自衛します。同様に、心も心自体を守るために心の病を発症するのだと思います。うつ病や、そううつ病、統合失調症といった精神疾患を発症することによって、逆に、心の内部に溜まったガスを抜き、圧を下げる。もし、発病しないままに、どんどん「心のバインド」にかかる圧力が増し、心の内部のガス圧が限界閾値(いきち)を超えてしまったら、最終的には心が爆発し、破壊されてしまうから。つまり、心の病=やっつけるべき悪い病気ではなく、精神疾患は人間が自分の心を守るために働く自衛メカニズムなのだと思います。
図らずも私が奥多摩で行ったように、心を挟む、縛る、抑えつけるもの(一言で言えば、ストレス)さえ外してしまえば、心は病む必要がなくなります。体内から悪い病原菌が消えれば、自然と熱も下がるように。
精神疾患を発症したら薬の助けも確かに必要ですが、ストレスの根本原因を取り除かない限り、完治はしません。薬の力でバインドの圧力を緩めることは出来ても、薬の力でバインドを外すことは出来ない。精神薬には酒やドラッグや煙草のように依存性があります。禁断症状は起きなくても、ないと不安になる。
奥多摩以降、私は、そううつ病やパニック障害の症状は完治(バインドは完全に外したので、恐らく寛解ではなく完治)したけど、20年服用し続けた薬を7錠飲まないと、今でも眠ることが出来ない。西洋医学が処方する、ほとんどの薬がそうだけれど、ケミカルな薬は対処療法にしかならない。そして、身体の病気は自分の力ではどうすることも出来なくても、心(脳/精神)の病気は、ストレス(バインド)を外しさえすれば、治すことが出来る。そのためには、「心の仕組み」を知る必要があります。
 心や精神は、見たり触ったりすることが出来ないので、本質的には科学が扱うことの出来る領域の外にある対象です。一般的には、心の病=脳の問題と考えられていますが、私は、心のすべてを身体としての脳に還元することは出来ないと考えています。続くチャプターで、人間の心のメカニズムについて、さらに踏み込んで書いてみたいと思います。そして、この本が少しでも、私と同じように心の病に苦しんで来た人のお役に立てることを祈っています。

*『心の仕組み』

 心は人間にとって永遠の謎でした。だからこそ何千年もの間、物語が書き継がれ、そして、その心の謎に対する興味のために、人々は物語を読み続けて来たのだと思います。
 夏目漱石の書いた『それから』(新潮文庫)の中には、代助と三千代のこんな会話があります。

「貴方(あなた)はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」
「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」
「漂泊---」
「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」

 では、この人間同士の心と心の不思議なやりとりは一体、どういうメカニズムで成り立っているのでしょう。
なぜ人間の心がややこしいか、というと、人間の心は三重構造になっているからです。生まれたばかりの赤ん坊、すなわち自然存在、動物として一番ナチュラルな状態にある時は、人間には自我なんてものはありません。でも、この自然存在がコトバという人工物を脳に注入されることによって、ヒトは自分と他の存在を差異化(区別)するようになり、自我というシステムを作り上げる。そして、その自我の上に、さらに理性というシステムを構築します。
 動物にも喜怒哀楽(剥き出しの心)はあるけれど、野性存在は感情をコントロールしようとはしません。しかし、人間は動物としてのナチュラルな心を自我でシールドし、そのシールドをさらに理性でシールドしている。そういう三重構造になっているのが人間の心なのだと思います。
 人間は、外界からの刺激が、ダイレクトに心に入って来ない。五感が認知したナマの感覚が、脳で言語化され、その加工された人工的なデータがようやく心に届く。そして、その心が感じたピュアな感覚を、再び脳が言語化し、相手にコトバを発する。その相手は、伝達された情報を自身の脳内言語システムで処理して心に落とし込み……といった、ものすごくややこしいことを、人間の心はやっているわけです。
 すごく簡単に書くと、こういうことです。自然存在に近い小さな子どもは、思ったことを何も考えずに、そのまま口にします。でも普通、大人はそういうことはしません。こう言ったら相手がどう思うか、と相手に気遣うこともあるだろうし、逆に、相手を論破しようと考えながら戦略的に言葉を選ぶこともある。もしくは異性を口説くために心理戦を仕掛ける場合だってあるかも知れない。
 子どもとは違う、こうした大人の言葉の使い方、コミュニケーション方法は、すべて「企み」です。つまり意図を含んだ言葉。子どもは思ったことを口にするけど、大人は考えたことを口にします。
 とは言え、人間(大人)同士のコミュニケーションの本質は意外と単純です。どんなに戦略的な言葉を駆使しようが、いくら頭が良かろうが悪かろうが、心と心は、パッシブ・ポジション(受容スタンス)とアクティブ・ポジション(反撃スタンス)の交換によって成立しています。
 例えば、隣に座ってテレビを見ている人が「やっぱり、マツコ・デラックスって面白いよね」と言ったとします。そうすると、返事を返す方は「うん、面白いよね」と相手の言葉を受容するか「いや。おれは、スギちゃんの方が面白いと思うけどな」と反論するかを無意識に判断しています。そして返事を返された方は、発言を受容されれば快だし、反論されれば不快になります。
 どれほど高度な政治的議論であれ、どれほど難解な数学的論争であれ、そして、どれほど凡庸(ぼんよう)な日常会話であれ、人間は誰しも会話する時、このパッシブ(受容)とアクティブ(反撃)のキャッチボールをしています。テレビの中の人でも友人でも家族でも構いません。誰かが何かを言って(この文章を読んで)、それに対して自分が言葉(感想)を返す時、一瞬、自分の心の中を意識化してみて下さい。その時、あなたの心は誰かの(私の)意見を受け入れていますか? それとも反発を感じましたか? そして、あなたが返した言葉を相手は受容しましたか? 反論しましたか?

「これ、美味しいね」「うん、そうだね」

たった、それだけの会話でも、人間の心は瞬時かつ無意識に、パッシブかアクティブか判断しながら他者とコミュニケートしています。そして、互いの心理構造が見えていれば「あ、今、パッシブに入った」「あ、今、アクティブに入った」という形で納得感があるのでフラストレーションも溜まりません。身近な人が何か言って、それが差し障りのないことならば「でもさー」とアクティブで返事を返さずに「うん、そうだね」とパッシブで返事をするクセを付けておくと人間関係は好転して行きます。
何だ、そんなことか、と思われるかも知れませんが、ピッチャーがどんな球を投げて来るかが分かっていれば、ボールを打ち返しやすいように、会話(人間関係)も、コミュニケーションの構造、メカニズムを理解していれば対処しやすい。そして「人間の心」という一見、複雑怪奇なメカニズムも、実は「0(パッシブ)か、1(アクティブ)か」の二択でしかないシンプルなシステムです。
どちらが「正しい」か、議論する必要なんてないのです。あなたが判断しなければ(考えなければ)ならないのは、相手の言葉(意見)を「受容」するか「反撃」するか、心のスイッチをどちらにシフトするか「決める」ことだけです。
ドラマや映画を観ている時、もしくは小説を読んでいる時、会話の構造を見極めてみて下さい。そこで行われているのは「0/1」のスイッチングでしかありません。スイッチング以外は全部「独り言」です。会話と言うのは本質的に「ボケ(受容)」と「ツッコミ(反撃)」の繰り返し(連続)で成り立っています。
恋人の愚痴や自慢話にうんざりすることもあるかとは思いますが、そこで「だから、それはさ」と答えや結論を急ごう(反撃しよう)とはせず、愛があるなら「うん、そうだね」と相槌を打って(受容して)あげましょう。当たり前だけど、誰だって自分を受容(肯定)されれば嬉しいのです。例え、いくつになっても。
うつ病に苦しんでいらっしゃる方も「所詮、人間関係なんてボケとツッコミだ!」と割り切って世間を見回してみて下さい。きっと、生きて行くことが少しだけ楽になります。



心の内部で行われている「パッシブ」と「アクティブ」の切り替えとは、「自我シールド」で情報(刺激)を遮断する(ATフィールド・ON)か、「自我シールド」を解放し(ATフィールド・OFF)、情報(刺激)を心の内部に受け入れる(変化を許容する)かのスイッチングです。自我シールドを完全に解くことが出来た時が、恐らくは「心の病が完治する時」。
ちなみに「洗脳」とは「心の形を無理やり変えること」であり、「宗教」とは「全面的な受容」を意味します。仏様の言うことならば何でも受け入れるのも「宗教」だし、聖書に書いてあることならば何でも信じるのも「宗教」。レディー・ガガのやることなすこと、何でもかんでも受容してしまうのも「宗教」だし、彼氏彼女の言葉なら何でも素直に受け入れてしまうのも「宗教」。もし、「コイツのやることなら何だって許せる」という相手がいたら、その相手があなたの教祖です。
もし、自分でオリジナル宗教を立ち上げ、教祖になって金を稼ぎたければ、もしくは商品を売り込みたければ、営業成績を上げたければ、人の心の自我シールドを外す方法を見つけて下さい。

*『ブランドと偏見』

思いやりの心は人生で成功する究極の源です。利己的な考え方は他者を害するだけでなく、まさに自分が望んでいる幸福を阻害します。

 ……と、ダライ・ラマ14世が語っていると「うーん、さすがいいこと言うな」という場合でも、同じことを売れない作家が書いていると「そんなことはお前に言われなくても分かってるよ」と感じたりします。でも、そうした偏見を持つのは人間の心理構造としては当然の働きなのだと思います。
 パリッとしたスーツを着ている人はきちんとした人間に見えるし、だらしない恰好をしていればだらしなく見えるし、大きな刺青をしている人を見れば怖そうに見えます。そうしたファッションや外見は人間の中身/本質とは関係のない偏見ですが、偏見を無理に排除したり否定したりする方が不自然です。
 ノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥先生のiPS細胞の研究のように、誰でも眼で見て価値を理解出来る認識対象は脳で処理出来ます。しかし、抽象度の高い認識対象、例えば芸術作品や映画、哲学や宗教についての話は、その時その場所のタイミングでツボに入れば「おお、すごい」と感じますが、ツボに入らない対象は脳で処理ので心に落とし込まれます。先ほども書きましたが、心というのは、インプットがあるとパッシブ・ポジション(受容スタンス)を取るか、アクティブ・ポジション(反撃スタンス)を取るか無意識に判断します。この時、心が「受容」か「反撃」か、どちらにシフトするかのスイッチになるのが、認識対象のファッションであり肩書であり偏見なのです。
 苦労して工場を作った中小企業の社長さんの方が、ダライ・ラマよりも、はるに人生の含蓄が深い場合だって、まま、あるのです。でも、中小企業の社長さんが居酒屋で人生について語っていても誰も話を聞かないけれど、ダライ・ラマが公の場で話をすれば、20万人が即座に集まる。それは、社長さんとダライ・ラマの人間性の違いではなく、ブランド力(金にまみれた世俗の宗教とは違う、精錬で潔白なイメージ)の違いです。そして、そのブランド力は、脈々と受け継がれて来た王制と同じで、ダライ・ラマ本人が血と汗にまみれ、自分の力で獲得した「力」ではありません。

 ルイ・ヴィトンのバッグから「ルイ・ヴィトン」というブランドを外したら、本革のバッグを300円で売ることも難しいだろうし、ムラカミ・ハルキ作品から「ムラカミ・ハルキ」というブランドを外したら新作を300部売ることも難しいでしょう。東大から「東大」というブランドを外したら、「東大」を受験する学生は一人もいないかも知れない。そして、ダライ・ラマから「ダライ・ラマ」というブランドを外したら、彼の話に耳を傾ける人は誰もいない。

 現代社会は格差社会と言われますが、その格差を作っているのは、実は「実力的な内容」ではなく、「ブランド力」です。ブランド・パワーを有する場所に、人も金も集まる。そして、そのブランドの力は、努力や技術ではなく「起爆」→「拡散」→「定着」というプロセスによって作られます。「起爆ボタン(ティッピング・ポイント)」をスイッチングするのは、社会全体の「フロー」であり、人の力ではどうすることも出来ません。どれだけ内容や技術が優れたマテリアルを、莫大な広告費を使って宣伝しても流行らないものは流行らないし、どれだけ無意味で劣悪なマテリアルであっても、爆発的に拡散する場合もある。それは、人智を超えた(人間には推し測ることの出来ない)社会全体の動き、流れ(ネットワーク全体の変化/シフト)だから、どれだけがんばっても人間には作り出すことが出来ない。インターネット全体の動きを意図的にコントロール出来ないことと同じです。
「死ぬ思いでがんばっているのに、どうして売れないんだ?」と自分を責めない方がいい。どれほど、がんばっても売れない時は売れない。やるべきことをやったら、後は時流を待つことが必要です
一度形成されたブランドはパワーを持つし、ブランドの語る言葉に、人は耳を傾けます。
 人間の「偉い/偉くない」という格差/偏見を生み出しているのは、人格でも行いでも、物理的/経済的な力ではなく「ブランド」です。
 例えば、ブランド・イメージの悪い総理大臣が、どれほどの金と権力を使って国を動かそうとしても国民は彼の言うことを聞きませんが、ブランド・イメージの極めて高い総理大臣が何か言えば、話の内容とは関係なく、大半の国民は彼の言うことを聞き入れます。かつて、ヒットラーの語る言葉に多くの国民が従ったのは、大衆が彼に「騙された」からではありません。「ヒットラー」がブランドだったからです。そして、そのような思想、政治家の「ブランド化」は、いつの時代、どのような場所でも起こります。どれだけの金と力と知性を持っていたとしても、大衆は「ブランドの力」に抗うことは出来ません。なぜなら、人間の「心」の中には、「パッシブ」と「アクティブ」の切り替えスイッチが付いているからです。
 動物と同じように、人間も相手が自分より強い=偉いと心がジャッジすれば、犬が敵に腹を見せて降参するように、受容スタンスを取っても自我は傷付きません。しかし、相手が自分と同等か、それ以下と認識した相手には自然と攻撃的なスタンスになります。一般的に人間も、明らかに自分より肉体的に強い相手、社会的に偉い相手とはケンカしません。逆に、自分より下もしくは同等と認識した相手のアクション(働きかけ)を無理矢理受容させられると自我はダメージを受けます。
 例えば「あなたの、そのネクタイのセンスはどうにかした方がいいよ」と尊敬する社長から言われれば「あ、確かにそうだな。さすが社長」と思う場合でも、内心見下しているクライアントから同じことを言われたら「ふざけんな、この野郎」と思ったりします。そして、その尊敬する社長が、キャラもルックスもそのままに下請け子会社のパートさんになり、同じことをあなたに対して言ったとしたら、やはり、多くの人は「ふざけんな、この野郎」と思うと思います。
 つまり、偏見(ブランド)と言うのは認識対象に対して、心がパッシブになるかアクティブになるかの切り替えスイッチの役割を果たしているので、偏見を排除して無理に中立の立場(フラットな視点)を取ろうとすると、逆に人間の心は混乱してしまいます。だから、むしろ、自我(エゴ)を自衛するためには、適度な偏見(バイアス)は持っていた方がいい。



一見、何でも平等にした方が「良いこと」のように思えますが、例えば、立場が完全に対等の夫婦は、それだけ対立も深く、ケンカもストレスも多くなります。「カカア天下」で旦那がブーブー言いながらも、嫁さんの言うことを素直に聞いていた方が、妻が夫を「殿」と持ち上げ、チヤホヤしていた方が、夫婦関係はうまく行く。そうした上下関係や偏見は、上から下へと物事をスムースに流すためには、必ずしも悪いものではないのです。
また流行(ハヤリ)に身を委ねるのも悪いことではありません。カラオケで流行歌を歌うことも、流行のファッションを身にまとうことも人間は「楽しい」のです。肩肘張って自我シールドをONにせず(自分を防御しようとはせずに)、心を解放すればストレスは消えてなくなります。
自然の、時流の流れに身を任せて生きることが出来れば、とても楽に生きることが出来ます。川の流れに逆らわず、水の動きに舟を委ねてしまえば、何ものにも疎外されることなく、自然と大海へと辿り着くように。

2:身近な問題の解決マニュアル

*『育児と教育』

 私は元々、40過ぎても新幹線の乗り方が分からないくらい社会的知識の欠如した、とても子どもっぽい人間だったのですが、奥多摩で一回「心のバインド」を全部外してしまったことによって、さらに子どもや動物に近付いてしまいました。なので、子ども目線で見た育児と教育について書いてみたいと思います。

 子どもは「親→子」「上→下」というトップダウンで「とにかく言われた通りにしろ。親(先生)に言われたことは素直に聞け」と命令されると反発します。でも、それは大人でも同じですよね。「おれはお前の上司なんだから、問答無用で指示に従え」と「肩書だけの立場」を根拠に絶対服従を強いられたら、新興宗教の盲目的な信徒以外「ふざけんな、この野郎」と、誰だって内心、毒づくと思います。逆に、そこは子どもも大人と同じで、自分がきちんと納得したことならば、人に言われなくてもやるようになるし、がんばることが出来る。
 問答無用で上から押さえつけられた子どもが一番、簡単に、その上下関係をひっくり返し、親や先生に対してアドバンテージを握ることが出来る手段が暴力です。親だろうが先生だろうが鉄パイプでぶん殴ってしまえば、少なくともその場では主導権を握り、相手を自分の支配下に置くことが出来る。その、子どもの方の止むに止まれぬ気持ちを理解しないで「暴力はいけない」という決まり文句で子どもを説得しようとしても、彼ら、彼女らは「どうせ、大人になんか、おれたちの気持ちは分かりはしないんだ」と絶望し、親や先生への信頼を失い、余計に道を外れて行ってしまうと思います。
 今の時代、学校の窓ガラスを叩き割る生徒は少ないかも知れませんが、ネットのバーチャルな世界やSNSの疑似的な人間関係に逃避する若者も、キレて人を刺す子どもも同じ心理ではないかと思うのです。
 今回『ハートメイカー』を執筆する過程で強く感じましたが、表面的には何がどう変わろうと、人間の本質は千年前も現代も、あまり変わらないような気がします。
「空って何で青いの?」と子どもに訊かれ、大急ぎでネットの記事を調べて子どもに答えを与えることよりも、子どもと一緒に空を見上げて「そうだね、どうして空って青いんだろうね」と一緒に悩み、考えることの方が余程大事です。
 仕事も家事も育児もしなければならない多忙な毎日の中で、いちいち子どもと一緒に悩んだり、物事の本質について考えている余裕はないかも知れません。でも、例えば子どもを叱る時に「親目線」の他に「子ども目線」を自分の中に持つことによって、親の口から出た「やりなさい」と言う同じ言葉も、受け取り手の感じ方はまったく変わって来る。一言で言えば、その「やりなさい」と言う言葉の中に、苛立ちや威圧ではなく、優しさや共感が含まれているかどうかの問題なのだと思います。
 もちろん、優しさだけでなく厳しさもなければ、子どもに物事の道理を教えることは出来ないけれど、その厳しさの根底に僅かでも優しさがなければ、子どもは確実に歪みます。
 また、小さな子どもに対しては、時に、思い切り抱きしめることも必要です。言葉ではなく身体で、フィジカルに。言葉は所詮、言葉です。大人は、美辞麗句(びじれいく)を口先だけで安易に語る存在であることを、子どもは直観的に知っています。子どもは理論や理屈、権威にまだ言いくるめられていない分だけ、大人の口にする言葉の軽さを分かっています。政治家が口にする公約の軽さを大人が嘲笑するのと同じ感覚で、子どもも大人が口にする理想に満ちた綺麗な言葉を内心嘲笑している。結局、口先だけで親や先生は自分と正面から対峙してくれないと察すれば、荒れる子どもも、育ちのいい内向的な大人しい子どもも、同じように心の中で大人を見下し、あざ笑うと思います。でも、それは同時に、彼ら彼女らの悲しみであり絶望でもあると思うのです。信用に足る、支えとなってくれる大人がいないことへの。そして大人を否定することによって、まだもろく無防備な自我を自衛している。
 子どもを物理的にしっかりと抱きしめることによって、互いに必要とし必要とされていることが実感として伝わり合う。そのことによって子どもは情緒的に安定する。
もちろん、自立して行く過程で反抗期はあってしかるべきだと思うし、むしろ、ないと困りますが、肌と肌を触れ合うことによって安堵し気持ちが安らぐのは、大人でも子どもでも同じではないでしょうか。
 もう一点。「教える/教えられる」という関係についてなのですが。
 それが純然たる勉強やしつけであれば、ある程度トップダウンで子どもにものを教えることは必要だと思います。でも「教育(教えて育てる)」の本質は「導くこと」ではなく「気付かせてあげること」だと思うのです。

 教えるということは、こちらが差し出したものがつらい義務ではなく貴重な贈り物だと感じられるようなことであるべきです。

 と、アルバート・アインシュタイン(1879-1955)は語っています。
 例えば、あなたが一念発起(いちねんほっき)してボクシング・ジムに通いはじめたとします。もちろん、トレーナーから言われた通りに、ただ、ひたすら左ジャブだけを毎日1000本×半年間、打ち続けることによってしか分からないこともあります。でも、その基本を習得するプロセスで「こう打たれたら、こうガードしろ」と頭ごなしに押し付けられるより、「こう殴られたら、お前ならどう避ける?」と問い掛けられ、自分の頭で必死に考え出した答えに対し「じゃあ、その後こう打たれたら?」と投げ掛けられた方が、その技術や知識は余程身に付く。教育は、そのトップダウンとボトムアップの程よい兼ね合いなのだと思います。
 私が今、家族以外で一番信頼している人間は、ボクシング・トレーナーの石田さん(43歳・元A級プロボクサー)です。
 かっこつけるわけでも自慢するわけでもなく、私はこれまで師と呼べる人とは一人も巡り合うことが出来ませんでした。本質的には誰かに何かを教わったことはないし、既存の枠の中に収まることが出来ないまま生きて来るしかなかった。
でも、今のジムで石田さんと出会い、40歳を過ぎてから改めて世界最古の競技であるボクシングという枠の中に身を投じ、そのレールの最後尾にくっ付いて「レオ・サンタ・クルス」とか「ホルヘ・リナレス」といった、はるか天空に瞬く憧れの星の後ろ姿を仰ぎ見ることによって今、計り知れない安堵と救い、癒しを得ている。それは本当の愛を知らぬままに彷徨い歩いて生きて来た根無し草が、結婚という枠の中に落ち着くことによって、はじめて得られる安堵や救い、癒しとまったく同じ種類の感覚。
 トレーナーの石田さんは滅多に褒めてくれません。でも、私は技術的にも人間的にも石田さんを100%信頼しているから、何とか石田さんに言われたことを、忠実にしっかり身に付けたいという一心でがんばることができる。いつか一言、石田さんに「鈴木さん、上手くなったな」と褒めて欲しいから。
 石田さんが私にとっての師であるように、私も子どもたちにとっての師でありたい。本当に心から信頼出来る師匠の口から出た言葉なら、その師匠が親だろうが教師だろうが組長だろうが、人間いくつになっても素直に言うことを聞くと思います。
 そう考えると、子どもと向き合うのに「シュタイナー教育」とか「モンテッソリー・メソッド」とかムズカシイことを考えなくてもいいのではないかと、少なくとも私は思います。

*『人はなぜ恋をするのか?』

 私も作家の端くれですから、恋愛について多くの物語を書いて来ました。作品のテーマが「恋愛」ではなくても、恋愛の要素が入っていないと読者に本を読んでもらえません。古(いにしえ)より、作家は連綿と男女関係のエピソードについて書き続けて来たわけですが、逆に言えば、恋愛のメカニズムが解けないからこそ、作家はいろいろと思いを巡らせ、ドラマを生み出すことが可能だったとも言えます。
では、みなさんは、そもそも「人はなぜ恋をするのか?」と考えたことはありますか? 私が敬愛する恋愛小説家の唯川恵さんは『愛がなくてはじまらない』(だいわ文庫)の中で、こう書いています。

「今まで、後悔した恋愛は一度もないわ」
 と、彼女は言った。
「だって、彼らとの恋愛があってこそ私という人間がここにいるんだもの」
 でも、私は後悔した。
 確かに、そういうことがあって私がここにいるわけだけど、後悔しまくった。
 どうしてあんな男を好きになったのかと、死ぬほど後悔した。

 どうして人は人を好きになってしまうのでしょう?
 英語では恋も愛も、ひとくくりに「LOVE」と表現します。しかし日本人は恋と愛という別々の言葉を作った。なのに、恋も愛も英語のように一緒くたにして「恋愛感情」と呼ぶから恋愛について多くの人が惑うけれども、そもそも、この恋と愛はまったく別の感情なのだと思います。
結論から述べますと、恋というのは動物のオスとメスが惹かれあうのと同じ感情です。では、なぜ動物のオスとメスが惹かれあうか、というと繁殖するためです。そのミッションのために動物のオスとメスは惹かれあい番(つが)う。だから恋をすると「彼女を抱きたい」(生殖したい)と思うのも「あの人に抱かれたい」(生殖したい)と思うのも、動物としては自然なことです。つまり、人間は、脳が無意識かつ生理的に「この相手と交配して遺伝子を残したい」と判断した異性に「惚れる」のだと思います。例えプラトニック・ラブであったとしても、恋が生理現象だからこそ、脳内物質の分泌が異常になったり、心臓の動悸がしたりといった身体的な変化が表れる。「もう、あの人のことで頭がいっぱい。他のことは考えられない」とか「なぜ、こんなにも胸が切なく苦しいのだろう」「キュンキュンする」「ドキドキする」といった感覚。これは身体感覚です。つまり「あなたが好きです」という告白は「あなたと繁殖したい」という動物の求愛と同義です。そして「一目惚れ」とは、脳内で繁殖センサーが反応したことを意味します。
 一見、ピュアで甘美で崇高なロマンスだったとしても、恋が繁殖を目的とした生化学反応だからこそ、同じ相手と何度もセックスをしている内に飽きてしまったり、付き合いが長くなるにつれて気持ちが醒めてしまう。
 女性の恋愛活動が活性化するのは初潮から閉経まで。生殖可能な時期を過ぎると、女性は急激に恋愛欲求を低下させます。また、中高年の男性と若い女性との恋愛関係は成立するのに、その逆が基本的に成立しないのも同じ理由からです。
 羽を広げて求愛する鳥の映像を誰しも一度は見たことがあると思いますが、生物はみな、異性を惹き付けるために懸命な努力をします。モテるために着飾ることも、若く美しいメスにオスが惹かれることも、肉体的/社会的に強いオスにメスが惹かれることも、生物として自然な欲求。異性を惹き付けるのは生命力(オーラ)の強さ。普段はモテる人も、元気(繁殖力)が弱まるとモテなくなります。また、例え美形ではなくても、いつも明るく元気な人は異性を惹き付ける魅力を放ちます。
一言で言えば恋とは動物としての人間に備わっている生体(繁殖)メカニズム。対して性とは関係なく「一緒にいると楽だし安心する」という人間的な相性を感じるのが愛。そして、人間が抱く人間的な愛の感情は、性別や年齢、繁殖とは関係ありません。だから、本質的には繁殖(セックス)と生活は両立しないのです。
 そもそもは、こうした、まったく別種の心的作用である「恋」と「愛」を「恋愛」としてひとくくりにしてしまったのが、恋愛に対して人々が抱く幻想の原因です。
「あなたに恋しています」と「あなたを愛しています」では「冥王星」と「海王星」くらい言葉の意味が違います。世間的には「恋愛対象は一人でなければならぬ」という固定観念があるけれども「好きなのはAさんだけど、愛しているのはBさん」というシチュエーション自体は、人間の自然な感情として決して矛盾しない。
 一生一緒に暮らすなら、相性がいい相手と結ばれた方が幸せになることが出来ると思います。恋は一時的生理欲求ですが、相性で結ばれた相手への感覚はそれほど変化しないから。
簡単に言えば、相手の容姿(ポテンシャル)で結婚するのは、動物と動物としての結婚。相手の人柄や性格(相性)で結婚するのが、人間と人間としての結婚。動物は一時的な繁殖を目的としてカップリングするので、動物として結婚すると長続きしません。
 動物にもモテる個体とモテない個体がいます。人間にもモテる人とモテない人がいます。では、「モテる/モテない」は、どのようにして決まるのでしょうか?
 女性にとって男性の「高学歴、高身長、高収入」は恋愛ファクターになりますが、男性にとって、もっとも重要な恋愛ファクターは女性の容姿です。また、か弱い美少女を好きになる男はたくさんいるけど、虚弱過ぎるイケメンを好きになる女性はあまりいない。こうした性差による「モテ」の相違は、どこから来るのでしょう?
 幼児を見ているとよく分かりますが、オスは本能的に「強くなりたい(闘って、勝ちたい)」という願望を持っています。メスは「美しく、可愛くなりたい(より多くのオスを引き寄せたい)」という願望を持っています。現代社会は、どんどん本能が薄く、弱く、壊れて来ていますが、例え、成人し、社会に出ても、パワーを求めるのはオスの本能であり、美を求めるのがメスの本能。ただ、オスは時代や場所に関係なく、肉体的/社会的に「強い(庇護能力、包容能力が高い)」個体がモテますが、オスを引き寄せるメスの美醜は時代や場所により変化します。昔の日本と今の日本では「美」の基準が違うし、地域によっては、顔の造形とは関係なく、よりお尻の大きい女性、首の長い女性が「美しい」とされる場合もある。女性の美醜は、どれだけ多くのオスを引き寄せることができるかによって決まります。性差(性の違いによって生まれる特徴)がどこから来るかというと、女性の「女性性」は生殖行為において受容存在(遺伝子を受け入れる方)であることに起因し、男性の「男性性」は生殖行為において能動存在(遺伝子を与える方)であることに起因するのだと思います。そして、オスは美しい受容存在と、メスは強い能動存在とカップリングした方が、自分の遺伝子が伝播して行く可能性が高くなる。「強いオス」「美しいメス」ほど、遺伝子の選択権を持っています。つまり、より優性の(継続性/拡散性が高い)遺伝子を持った個体が「モテる」ということです。だから、オスのブタから見て、美しいメス・ブタという認識作用、モテるブタ、モテないブタの格差もあるのではないかと思います。
「容姿の美醜なんて所詮、皮一枚の問題じゃないの。でも、やっぱり整形してでもモテたい」という女性も多々いらっしゃるかと思いますが、「モテる女性/美しい女性」とは「たくさんのオスが繁殖したがっている(遺伝子を与えたがっている)メス」のことです。逆に言えば

「美=最大公約数的にオスを引き寄せるメスの身体的特徴」

です。
男性に対して「ハニートラップ」は有効ですが、女性に対して「ハニートラップ」は、あまり効果がありません。女性にとって、男性の容姿はマスト・アイテムではないけれど、男が恋に落ちるのは、たいてい美しい女性。でも、それは、あくまで繁殖を目的とした生化学反応です。
 激しく燃え上がる恋人同士はたくさんセックス(生殖)して下さい。でも、その相手との結婚はちょっと待った方がいいかも知れません。いませんか? 他に。トキメキはしないのだけど、不思議とアイツと一緒にいると素の自分でいられて和(なご)むんだよな、と感じるお相手が。
恋い焦がれ合う二人が障害を乗り越え、最後で抱き合いキスを交わすドラマも、切ない恋心を熱唱するラブ・ソングも、その「好き」の正体が動物の繁殖欲求と同じだと考えると身もふたもありませんが、良くも悪しくも「Love Is The Mystery」ではないのです。「どうしてこんなにも好きになってしまったのだろう?」と恋に悩み、苦しむ前に、心の中に眼を向けて、自分が抱く理不尽な感情の正体を見極めてみませんか?

*『理想の家族』

 現代社会に生きていると忘れがちなことですが、人間もあくまで動物の一種です。他の動物と人間が違うのは「言葉を持っているか、否か」という一点のみです。そして、その「言葉」を持ったことにより、人間は動物としての本能が壊れてしまいました。なので、ここで「人間とは動物である」という基本に立ち返って、人間の、そして家族の在り様を考えてみたいと思います。



 多くの人は「一夫一婦制」という家族構成を、何の疑いもなく当たり前の前提、制度として受け止め、婚活して、結婚して、家庭を作ると思うのですが、『結婚の起源』(どうぶつ社)という本の中で、人類学者であるヘレン・E・フィッシャーさんは、こう述べています。

一夫一婦制という慣習は、たぶん変化していくだろう。ロビン・フォックスは「今のままの状態が続けば、何らかのかたちの複数婚になるだろう。現在すでに一夫一婦制は機能しなくなっている」と述べているが、事実、こうした変化はすでにはじまっている。たとえば、今日ほとんどの西欧人は、全体としてみると一夫一婦制ではなくなっている。最初一人の相手ときずなを結んでも、やがてその関係を打ち切って、別の相手ときずなを結ぶというように、「次々と続いていく一夫一婦制」になっているのである。これは、ほかの社会においても見られることだ。離婚も、あらゆる社会で許されているが、離婚したのちに、ほとんどが別の相手と再びきずなを結んでいる。

 ホッキョクグマのお父さんは、やることやってコトが終わると、とっととどこかに行ってしまい、二度と家族の元には戻って来ません。人間も本性は同じだと思うのです。
 仕事のためでも、浮気のためでも、ギャンブルのためでもいいですが、妻子を残して家を出て行ってしまうお父さんはたくさんいますが、夫と子どもを残して家を出ていくお母さんはあまりいません。運命の恋に落ちて不倫に走るお母さんはたくさんいるかも知れませんが、その結果として家族を捨てる女性はレア・ケースです。また、女性は心で不倫しますが、男は身体で不倫します。
 では、なぜ、男と女はちゃんとくっ付いていられないのか? そして「家族」とは、いったい何なのか? 動物の視点から解き明かして行きたいと思います。
 セックスが本質的には子どもを作るための生殖行為(繁殖活動)であることに異存のある方はいらっしゃらないと思いますが、女性がセックスに対して求めているものと、男がセックスに対して求めているものは全然違います。
多くの場合、女性は人としてメンタルに発情し、セックスで愛を確認するけれども、男が女とセックスをしたがるのは動物としての種付け衝動なのだと思います。だから、避妊具を付けた状態と付けていない状態で快感に大差はなくても、男は本能的に膣内に直接射精したがる。
自分の宿した遺伝子を守りたい(子どもをプロテクトし、自分がプロテクトされたい)メスは浮気性のオスを警戒するけども、自分の遺伝子を広く頒布したい(より多くのメスと交配したい)という本能を根源で持つオスは拘束するメスを嫌う。
「男って何で浮気するの?」「浮気しない男はいない」とお嘆きの女性も多々いらっしゃるかと思いますが、オスの浮気(遺伝子の拡散/頒布)は本能です。
 メスは遺伝子を授精し、子どもを次世代に残すことが出来れば(そして、その子どもが繁殖可能に成長するまでプロテクトすることが出来れば)メスとしてのミッションを果たすことが出来るので、生涯を一人の男性と添い遂げても充足することが可能です。子どもと巣(家庭)を守るのはメスの本能なのだと思います。

「家を守るのが女の仕事」ではなく「家を守りたいのが女の本能」です。

 私は一昔前の「専業主婦が家庭を守って、男が外で稼いでくる」という役割分担の方が、現代社会の「男も女も何でも同じ」という価値観よりも、自然なライフ・スタイルだったと思います。生涯独身を貫き、仕事(夢/趣味)のためのみ(自分のためだけ)に生きても、ある種の男は完全に満たされて死んで行くことが出来ますが、生涯を仕事のみに捧げて(独りきりで生きて)充足出来る女性はいません。
社会参画において男女が同じ役割を担うことを否定はしませんが、ナチュラルに生きるためには「性差」を否定しない方がいい。
 もちろん生物種によって夫婦のあり方も育児、家族の役割分担も様々です。ただ、恐らく、ヒトのオスはメスに子どもを産ませる本能は持っているけれど、子ども育てる本能は持っていない。「仕事か、子どもか」二者択一を迫られて、仕事のために子どもを捨てる母親はほとんどいないと思いますが、男は仕事のために子どもを捨てることが出来ます。野生の馬の群れが顕著ですが、オスが本能的にプロテクトするのは自分の群れ=共同体です。
国家(群れ=共同体)を守るために武装して戦争を起こすのは常に男だし、男は会社(群れ=共同体)を守るためならば家庭を犠牲にすることも出来る。例外もあるとは思いますが、女性にとって一番大事なのは群れ=共同体(国家や会社)ではなく自分の子どもと家族だから、女性は戦争を起こしません。
「ヒト」という種に関して端的に言えば、一匹のオスとカップリングして、子どもと巣(家庭)を守るのがメスの本能で、たくさんのメスに子どもを産ませて、子育てをせずに群れを守るのがオスの本能なのだと思います。
つまり、現代社会における一夫一婦制というのは、こうした本来、別々のミッション(本能)を持ったオスとメスを一対一で強制的にくくりつけるための社会的契約制度(バインド)だから、愛を誓い合ったその日から、死ぬまでずっと「夫婦」「家族」という人生スタイルは、生物としては決して自然な営みではないのです。むしろ、ヒトという種に限定して言えば、イスラム圏やアフリカの一夫多妻、大奥/側室といった家族構成の方が、生態系のスタイルとしてはナチュラルです。ライオンのように、食料を得るための「狩り」をする役割をメスが担うケースもありますが、一匹のメスと複数のオス(一妻多夫)という家族構成の哺乳動物は、私が知る限り存在しません。アリは次々と産卵出来るので、女王アリを中心としたコロニーを形成しますが、哺乳動物は胎生で、授精から出産まで時間がかかりますから、メスを中心とした繁殖コロニーは形成することが出来ない。そして、仲の良い夫婦の代名詞である「おしどり」は、毎年、冬ごとにパートナーを変えます。
先のチャプターで「繁殖(セックス)と生活は両立しない」と書きました。じゃあ、子どもを作って家族になることができないではないか、と思われるかも知れませんが、繁殖した子どもたちを共同体で育てるというスタイルが「ヒト」という種にとって、もっとも自然な社会構成なのだと思います。現代社会における核家族は自然に反する、不自然な形態のコロニーですから、人間関係が歪んだり、家族の中で軋轢(あつれき)が生じたりするのは当然です。どんな環境にでも適応する能力を持ち、理性で本能をコントロールすることが出来るのが人間ですが、自然と反する行為は、必ずストレスの原因になります。「良い」「悪い」「正しい」「間違っている」という価値観を押し付けるつもりはないし、したくても出来ないという方もいらっしゃるかとは思いますが、男も女も「子どもを作らない」という人生設計は自然の摂理に反します。なぜなら、生物とは子どもを作ることを唯一のミッションとして存在しているからです。そのミッションのために動物は生まれ、育ち、寝て、起きて、狩りをして食べ、カップリングして死んで行きます。「幸福(夢)を追求して生きる自由」は人間に与えられた特権ですが、「幸福(夢)を追求して生きる」のは、動物としてはナチュラルな生き方ではありません。
では、人間は、どのような生活(暮らし)がもっともストレス・フリーで幸せなのか? 私が理想と考える人々をご紹介します。



みなさんは「ピダハン」と言う人々をご存知ですか?
ピダハンは、アマゾンの奥地で暮らす400人ほどの部族。そして今、この部族の言葉が、言語学会で大論争を巻き起こしているそうなのですが。
彼らは数の概念を持たない。1、2、3……。という数え方をせず「多い」か「少ない」か、という言葉しか持たない。右/左の概念や色の名前もないし、神も創生神話もない。「過去」という言葉も「未来」という言葉もないから、彼らは過去を悔いることもないし、未来を憂うこともない。だからピダハンは、とても穏やかで幸せそうに暮らしている。ピダハンを怒らせたり、苛立たせたりするのは、とても難しいそうです。ピダハンは、自分の子ども/他人の子どもという区別もしません。恐らく夫婦/家族/親族という境界線も限りなあいまいな人間相互のネットワークの中で生きているのではないかと推測します。先進国の常識で考えると奇異な社会形態ですが、夫婦/家族/親族というのは、その言葉自体が存在しなければ、この世には存在し得ない概念(境界線)です。つまり「夫婦」「家族」「親族」というのは、そうした言葉が生まれたことによって、人間の頭と心にかけられた言葉のバインドなのです。
 例えば304号室に暮らす私の家族=鈴木一族と、隣の303号室の住人である間柴一族とは、まったく血縁関係にないと言えばないのだけど、両家の血縁を過去にさかのぼっていけば、どこかで親兄弟は繋がっているのです。ウサイン・ボルトさんだろうが、アンジェリーナ・ジョリーさんだろうが、人類の起源を辿っていけば、人間はみんな親族関係者と言えないこともない。私とジョニー・デップさんの血縁の違いは、血が濃いか、薄いかの違いでしかない(はるか過去にまでさかのぼっていけば、家系図はどこかでつながる)のです。血縁関係の境界線は色のグラデーションと同じように、単なる線引きでしかないから、私の子どもとあなたの子どもとの間には、生物学的に絶対的な境界線は存在しません。
 繰り返しになりますが、私は動物としての人間の理想的なコロニーはピダハンのように「共同体の中で子どもを育てる」というスタイルだと思います。直系の血縁とは関係ない(でも、どこかで血は繋がっている)共同体(集団)が一つの家族ユニットになれば、少なくとも「親のいない子ども」も「シングル・マザー」もいなくなります。子どもが熱を出したからと言って、パパとママのどちらが幼稚園に迎えに行くかでケンカしなくて済むし、核家族的な閉塞感、孤立感に苦しむことなく、みんなで助け合い、支え合って暮らすことが出来る。そして、不妊治療をしなくても誰でも子どもの親になることが出来ます。
 私は毎日、次男を幼稚園に送迎しており、園児たちと一緒に公園で遊ぶこともあります。そうした時、一般的なバイアス(常識的な世界観)で周囲の光景を見ていると、やはり「自分の子ども」「他人の子ども」という区別はあります。でも、そのバイアスはピダハンのように外してしまうことも可能です。そして、バイアスを外してしまえば、極端な話「他人の子ども」を守るために、命を投げ出すことも出来ると思う。つまり、意識の持ち方一つで、誰でも「他人の子ども」の親になることは出来るのです。
 もちろん今すぐ即座に「一夫一婦制」という社会制度を解体することは出来ないでしょう。でも、現代社会における「核家族」というユニット(システム)が崩壊しはじめ、多くの夫婦が、そして多くの親と子が悲鳴を上げているのも確かだと思います。一度、動物の視点から、ナチュラルな家族の在り様を考えてみることも必要なのではないでしょうか?

『心のネットワーク』

 奥多摩に失踪し、素泊まりの宿に投宿していた最初の数日、私は、ただひたすらコタツに入って泣いていました。酒は一滴も飲まず、インスタント・コーヒーを飲みながらタバコを吸って、たまにリンゴか、ひからびた食パンをかじって後は、ずっと泣いていました。そして涙によって心が浄化され切った時「おれは、一兎(かずと)さんに会わなければならない」と直感しました。その時、私の丸裸の心に一切負荷をかけずに、100%通じ合うことが出来、私を救済してくれるのは一兎さんしかいないと本能が告げていました。
 一兎さんは27歳の老人介護員。そもそもは彼が「ミクシィ」のブック・レビューに私の著作の感想を書いていたことがきっかけで親交を結び、やがて家にご招待して、子どもたちと遊んでもらうような仲になりました。その後、一緒に小説を執筆したこともあるし、今ではボクシングのジム・メイトでもあります。ちなみに「一兎」というのは、作品を共著した時の彼の筆名です。
そして彼は私の求めに応じ、電車賃さえ足りないかもしれないという経済状況の中で奥多摩までやって来てくれました。「大丈夫ですか?」でも「しっかりして下さい!」でもなく「旅行に行くみたいで、純粋に楽しくて来ました」と言って。私たちは青梅線・奥多摩駅前の「クマ、出没注意!」と「命の電話・自殺110番」の立て看板の脇でしっかりハグしました。
 彼とは何の話をするでもなく、一緒に風呂に浸かったり、お互いの悪癖について打ち明け合ったり、どうでもいいようなことを、まったり話しながら夜は更けて行きました。彼はビールやカップ酒やウィスキーを飲みながら。私はインスタント・コーヒーをチビチビ飲みながら。私が「何か、音楽があったら最高だね」と言うと「あ、聴けないこともないです」と言って、彼はiPhoneでYOUTUBEを検索してくれました。「何でもいいよ」と言ったら、最初「AMAZARASHI(アマザラシ)」を再生してくれたのですが、その時の私にとって、あまりにも負荷の高い音楽だったので「AKB48」の歌をいろいろ一緒に聴きました。
 音楽を背景に一兎さんは、自分にとって『THE ANSWER』(角川書店/2004)が、いかにすさまじい作品だったかということを、はじめて気負いもてらいもなく流れるように語ってくれました。その時はじめて私は、彼に100%『THE ANSWER』が通じていることを知ったのです。
 その後、深夜2時過ぎに、お互い自然に眠りに落ち、翌朝、彼はとてもスッキリした顔で「楽しかったです」と言い残して帰って行きました。そして、その一夜によって私の魂はポワーンと救済されました。
 次に自分の意思で奥多摩までやって来てくれたのは、一兎さんと3人で作品を共著したこともあるキャバ嬢の「みなみ」。彼女もまた「行きたいから行くー」と言って、片道3時間くらいかけて奥多摩まで来てくれました。そして、マザーテレサのごとく無償の愛を私に注ぎ「じゃあねー」と言って帰って行きました。
 その後、激しい自殺衝動に襲われ「このままでは、おれは飛び降りてしまう」という状態の時に来てくれたのが父で、最後、事件の幕引き役として妻がやって来て、私を現実の世俗社会に連れ帰ってくれた。
 そして後日、以前入院していた精神病院のように、ただ深手を負った魂をかくまうシェルターを必要としていた時、再び、私を奥多摩に連れて行ってくれたのが実の母でした。
 奥多摩の古びた宿の一室の死者と生者が交わる冥界のようなあの場所は、丸裸の人間関係を一切の雑念抜きで見つめ直す場所でもありました。同時に、その冥界で、私は「心のバインド」をすべて外された、むき出しの一匹の動物として人間社会を見ていました。そうしたスピリチュアル・プロセスを経て学んだのは、

人間の心は一つではない。

 ということです。
本来、人間の心というのは様々な要素で出来ています。だから、この部分ではこの人を必要とし、この部分ではこの人を必要とし、ということは必ずある。それは身体がビタミンも必要だし、ミネラルも必要だし、タンパク質も必要だし、鉄分も必要だし、というのと同じことです。動物や昆虫、植物、そして鉱物までもが食物連鎖というネットワークで相互依存しながら繋がり、連関しているように、本来的には人間の心も、相互依存のネットワークの中に存在すべきものなのだと思います。だから、その食物連鎖を断ち切られれば心は孤立し、飢え死にしてしまう。「心」はスタンド・アローンではシステムを維持出来ないし、「心のネットワーク」は、クローズド・サーキットではなく、オープン・サーキットであるべきです。とは言え、「心のネットワーク」も、中心点(自分)から近いサークル、遠いサークル、人間関係のプライオリティーは歴然と存在します。
純粋に、この現実世界を生きていくということにおいて、私は誰よりも妻を必要としています。「子どものために命を捨てなさい」と言われれば、私は何の迷いもなく命を捨てることが出来ますが、もし逆に自分が無人島に誰か一人連れて行かなければならない、という選択を迫られれば間違いなく、子どもでも親でも友だちでもなく、私は妻を選びます。金も家も食料も何もない人生丸裸の無人島という場所で、それでも生きていくためには、誰よりも何よりも私という人間には妻が必要です。
 もし、何もかも失って、それでもまだ生きていたら、私は周りに大切な人さえいてくれれば、あとはテーブルとイスくらいあれば他には何もいりません。
 あの奥多摩で、自分にとって「本当に大切な人」が誰と誰と誰なのか「パッキーン」と線を引くように良く分かりました。すごくクリアに、自分を支えてくれる、そして自分が支えるべき相手が誰と誰と誰なのかを心底で理解した。まるで、とてもきめの細かいふるいで、砂金をより分けるように。
その場、その場で断続的に救援物資は届けられていたとは言え、砂漠に独り取り残されたように生死の境をさまよっていた短くはない時間、救助に来てくれない人を恨んだこともありました。物理的な深刻さではなかったけれど、被災地に取り残された方たちの気持ちが分かった気がします。でも今、私は周囲の人に対して愛と感謝の念しか抱いていません。
 キリスト教には「赦(ゆる)す」という根本教理があります。今になって私は、その「赦す」という概念がストレートに腑に落ちる感覚があります。一言で言えば、たぶん、

  「赦す=受容」

 なのだと思います。
 例えば、誰かがあなたに対して「わたしは友人に、こんなひどいことをしてしまった」と告白(懺悔)したとします。そこで、あなたがお説教をせずに「大丈夫。どんな失敗だって十年経ったら笑い話。気にすることないよ」と、相手を受容してあげることが出来れば、相手はあなたに赦される。逆に、たったそれだけのことでも、人は人を救うことが出来るのです。
人間は神ではないから無制限な愛を持つことは出来ない。一人の人間が持つことの出来る愛の総量というのはたぶん決まっています。だから、親子であれ、男女関係であれ、友人であれ、もし複数の「本当に大切な人」がいたら、その愛を分配しなければならない。そして、自分自身が受け取るのが、例え「100%の無償の愛」ではなくても、他者から分配してもらった愛を、恨んだり、ひがんだりすることなく素直に受け止め、その、おすそ分けしてもらった他者からの愛に対して心から「ありがとう」と言える気持ちを持つことが出来れば。そんな愛のやり取り、赦し、赦され合う関係こそが、きっと「心のネットワーク」なのです。

3:哲学的な問題の解決マニュアル



*『自分とは何か?』

 よく「自分でも自分のことなんて分からない」と言いますよね。20年ほど前にベストセラーになった『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著/NHK出版)という哲学ファンタジー小説では、14歳の女の子の元に「あなたはだれ?」と書かれた差出人不明の手紙が舞い込むことから物語がはじまります。そして、主人公が「自分とは何か?」「この世界はどこから来たのか?」と考えながら哲学の歴史を紐解いていくわけですが、結局、物語が終わっても結論は出ません。つまり「自分とは何か?」という問いは、哲学の永遠の命題なのです。
会社員であれ、哲学者であれ、心理学者であれ、多くの人は自分が自我(自分という人格)を持っていることは当たり前の事実だと考えています。この現代における常識的な世界観の起源になっているのが近代哲学の祖であるルネ・デカルト(1596-1650)です。彼は、この世界に確かなものなど何もなくても、この世界のすべてが自分の頭の中に思い描いている幻影に過ぎなかったとしても「そのことについて思いを巡らせている私自身の精神が存在していることは揺るぎようのない事実だ」と考えました。デカルトが「自我」という概念を前面に押し出すまで、人間は「自分とは何か?」なんてややこしいことは、あまり考えなかった。つまり、現代人に「自分探しの旅」をはじめさせるきっかけを作ったA級戦犯がデカルトなのです。
私はデカルトのように自我というものを唯一無二の絶対存在とは考えていません。自我は、人間の脳が言語というシステムによって人工的に作り上げた仮想概念です。10年前の『THE ANSWER』では、それは私の単なる主張に過ぎませんでしたが、この考え方は前述のピダハン部族の人たちによって立証されたように思います。
 彼らは、夫婦/家族/親族という境界線を持たないように、自分と他人も、ほとんど区別して考えていません。なぜなら、彼らは限りなく動物に近い、自然存在としての人間だからです。
 動物は「自分とは何か?」とは考えないし、悪口を言われても怒りません。動物も敵の攻撃から身を守りますが、守るのは身体としての自分。しかし人間は身体の中に宿した精神の、さらにコアにある自我(エゴ)を守るために、自分の人格が傷付かないように、心に様々なバリアを張り巡らせている。
知識武装してエゴを自衛したり、他人を見下し、批判することによって自分の価値を高めたり、人間を順位付けすることによって他者と自分をを差別化したり……。時には、相手に怒り、憎しみをぶつけることによって、もしくは、自分が悲劇の主人公になることによって自我を守る。人は、心を傷つけないために自殺さえする。自殺してしまえば身体は消えてもプライドは、自我は永遠に傷つかないから。
 例えば、金も地位も住む場所も何もかも失い自殺したAさん、という人がいたとします。もしAさんが、元々、周りがみんなホームレスの終戦直後の焼野原やインド・コルカタ(カルカッタ)の路上で暮らしていたら自殺しなかったかもしれない。でも、今の日本で暮らしていたら自殺してしまうのは、生きるのが物理的に辛く、苦しいからではなく、周囲と自分を比較した時の社会的尊厳の問題なのです。動物として生きて行くこと自体はゴミを漁っても、ネズミを食べても、例え素っ裸でも可能だから。つまり、Aさんはプライド=自我を守るために命を捨てたのです。
そもそも、ピダハンのように元々、自分と他人を区別して考えていなければ、自我なんて面倒なものを人間の心はしょい込みません。守るべき自我がなければ、心は外界からの刺激に対してパッシブ・ポジション(受容スタンス)もアクティブ・ポジション(反撃スタンス)も取る必要がなくなります。中立というより動物の心に近い存在として。ピダハンを怒らせたり、苛立たせたりするのが難しいのは自我を守る必要がないからです。「所詮、オレなんて……」の「オレ」が無ければ、何を言われたって腹も立ちません。
 ピダハンは折に触れ、人生で何度か名前を変えます。名前が変われば、別の人間になることも可能です。私という人格は、「鈴木剛介」という名前によって枠を与えられた記憶の総体でしかない。人間が生まれ落ちた過去から一連の統一した自我を維持していると感じるのは、一重(ひとえ)に長期記憶があるからです。人間の長期記憶とは、ハードディスク(脳)に保管してある、言語によって意味付けされた二次データのことです。
 例えば、短期記憶しか持てない記憶障害の人が、周囲に人も文明の痕跡(こんせき)も一切ない無人島に、覚書(おぼえがき)をするためのペンも紙も持たずに長期間放置されたら、いずれ自分が何者なのかも分からなくなり、自我を維持出来ずに限りなく野性に近付いて行ってしまうと思います。
 人は子どもの頃の写真を見て、過去の自分を懐かしみます。けれど、昔、おじいちゃんと一緒に遊園地に遊びに行った記憶は、例え長期記憶があったとしても「昔」「おじいちゃん」「遊園地」という言葉を知らなければ記憶としての意味を持ちません。つまり、言語OSがなければ、過去の自分と現在の自分は連環しないのです。一つながりの一貫した自己は、あくまで言語によって記号化された保存データに依拠した仮想概念でしかないのです。

さらに抽象度の高いレベルでは、神経学者たちは化学と心理学が重なり合い、さらにそこへ言語力が加わってくるような、そんな領域に足を踏み入れることになった。彼らが問題にしていたのは化学ではなく、むしろ記号論だった。つまり、記号がいかにして観念や対象に割り当てられ、それが、思考と呼ばれる、まだほとんど解明されていない過程で、どのように操作されるのかということだ。ある物が他のものを表すことなどということがどうして出来るのか。われわれが脳と脳の間でおこなっている言語による交流の本質は何なのか。
ジョージ・ジョンソン著『記憶のメカニズム』(河出書房新社)

つまり必要最低限の言葉しか持たず、記憶にいちいち意味付けしないピダハンには自我なんてないのです。彼らは、自分たちが知り得ない物事に関しては一切興味を持たず、関心を向けない。その状態を達観と言えば達観だし、無知と言えば無知ですが、ピダハン社会には抑うつも慢性疲労も精神疾患もありません。ピダハンは誰も慌てないし、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙(ごい)もない。マサチューセッツ工科大学の認知科学研究チームはピダハンを、これまで出会った中で、もっとも幸せそうな人々と評したそうです。なぜなら、どんな社会と比較しても彼ら、彼女らが微笑み、笑っている時間が長いから。
デカルトは「コギト・エルゴ・スム=我思う、ゆえに我あり」と主張しましたが、それは500年以上昔の話。そろそろ「我思ってるけど、実は我なし」という哲学にバージョン・アップしてもいいのではないかと思います。
 「自分」なんて探さなくていいのです。「自分」なんて、そもそもないのだから。

註:本書『ハートメイカー』におけるピダハンについての記述の多くは、D・L・エヴェレット著『ピダハン/「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)に負っていますが、昨年放送されたNHKの海外ドキュメンタリー(オーストラリアが2012年に制作)によると、現在、ピダハン部族の村には、ブラジル政府の支援(?)で家や電気、水道、トイレ、病院、学校が作られ、ポルトガル語の教育が行われて、テレビまで置かれているそうです。本当に文明って何なんだろうと、つくづく頭を抱えてしまいます。

*『数学とは何か?』

 2+2は4だとするのは一般的に合意されているからで、その公式が外界の現実に一致するからという理由ではない。
ジョン・ホーガン著『科学の終焉』(徳間書店)


私はもともと、他人がやっていることに興味がありません。ボクシングも、自分がやるのは好きだけど他人がやっている試合に興味はない。哲学も、自分の頭で考えるのは好きだけど他人の考えを学ぶことに興味はない。でも、多くの人はスポーツ観戦が好きだし、他人が書いた本を読んで勉強することを好む。だから、私は普通の人とは物事の見方や考え方のベクトルが逆を向いているのだと思います。小さい頃から一貫して。
今だからクリアに表現出来るのですが。所詮は1+1=2というのも他人が考えたことなのです。私は物心(ものごころ)付いた頃から、根拠が不明確なことにはどうしても納得出来ないタチだったので、6歳から26歳まで「何で、1+1は2なの?」と延々考え続けて来たのですが、それを40歳を過ぎた今、小学生だった自分の気持ちを代弁すると「何で、1+1=2という他人が考えたことを押し付けられなきゃならないの?」という生理的反発だったのだと思います。でも、1+1=2というルールを知らないと現代社会では生きていけない。つまり「1+1=2」は「赤信号では止まれ」と、まったく同じフィールド上にあるルールなのです。
「なぜ、信号の止まれは赤なのか?」という問いに対する答えは、誰かがそう決めたから。「1足す1は、なぜ2なのか?」という問いに対する答えも同じ。誰かがそう決めたから。そして「赤信号=止まれ」というルールも「1+1=2」というルールも何を根拠に誰がいつ、どうやって決めたのか、私も含めて、みんなあまり良く分かっていない。基本的人権とか数学の公理と同じように、誰もが根拠の基盤があいまいなままに、何となく長い間使い続けているベイシック・ルール。
 「無限小の点」という概念を数学的に定義出来たとしても、「無限小の点とは何か?」という問いに数学は答えることが出来ない。なぜなら、この世に生まれたのは、まず言葉で、その後に生まれたのが数だから。言葉という不確かな土台の上に構築されているのが数学という体系だから。数学者にとって素数は大きな研究テーマですが、素数という概念は言葉がなければ定義することは出来ません。純粋に数式だけを黒板に書き出したとしても、その数式を言葉を使わずに生徒に説明することは出来ない。そして、数学は、数学の力単独でゲーデルの不完全性定理という壁を突破することは原理的に不可能です。
 数学は世界から独立した純粋抽象体系ではありません。数学体系は、あくまで言語というフィールドの上に作られたリングです。どれほど高度で難解な数学であれ、その体系は、あくまで人が決めたルールに基づいて作られたゲーム。ストリート・ファイトではなく、ボクシングと同様にリングの中でルールを前提に行う競技/学問。それが数学。リングの外でルール無用のバトルを闘い、宇宙や存在のすべてを包括する究極の答えに到達することは数学には出来ません。数学が到達することが出来るのは、あくまで数学的真理のみです。だからこそ約6メートル四方の限られたスペース(宇宙)の中でボクシングが無駄を削ぎ落としたシンプルな芸術性を持つように、数学も美しく崇高なのだと思います。何でもありの哲学みたいなバトルは総合格闘技みたいな感じで、どこか泥臭いですから。
 ボクサー(数学者)と総合格闘家(哲学者)が路上でケンカしたらどちらが強いか? というのは興味の尽きない学術テーマですが、組み技に持ち込まれたらボクサーに勝ち目がないのは確かです。

*『社会システムの本質』

私は政治というものに興味がないので、めったに選挙には行きません。行かないと決めているわけではないのだけど気が向いた時にしか行かない。一方で、妻は私と違ってまっとうな社会人なので、誰に入れるかは関係なく選挙には絶対に行きます。
先日も「あれ? そう言えば、小夜(さよ)、選挙行ったの?」と訊いたら、血相を変えて慌ててネットで顔ぶれを調べ「入れる人がいない……」と呟きながらダッシュで家を飛び出して行きました。私が彼女をこよなく愛し、尊敬するのはそういう部分です。

内容や理屈はともかく、やるべきことはちゃんとやる。

というところ。
理屈はともかく何はともあれ選挙に行くというのは、今の社会にあっては守るべきモラル(義務ではないけど、大事な権利)です。だから、そのルールを、まっとうな社会人としての母親が子どもにきちんと教えるのは大切なこと。「じゃあ、パパは、どうして選挙に行かないの?」と、子どもに訊かれたら「パパは行きたくないから行かないの。大きくなったら、そういうことは自分で決めていいの」と答えると思います。我が家の子どもたちは、そこに矛盾を感じません。なぜなら、元々「パパとママは違う人間だから、言うことが違うけれども、うちの家族のリーダーはママだからママの言うことを聞きなさい」と教育しているからです。アマゾンやアフリカの原始的な部族も、そんな感じでシンプルにリーダーを決めているのではないかと思います。それが高度文明社会になると、選挙というややこしいシステムになってしまうわけですが。
民主主義というのは突き詰めて言えば「リーダーによる独裁を封じるために、みんなで集まって多数決で決めましょう」という社会システム(ルール)ですが、裏を返せば「誰も何が正しいか分からない」ということです。「じゃあ『正しさ』とは一体、何なのか?」ということを考えるのが哲学のそもそものミッション。そして『THE ANSWER』で提唱した「QAS(Question and Answer System)」という組織/国家運営システムの本質もそこにあります。

 構成員全員に対して「意見の受け皿」が開かれた上で「判断基準」「責任/決定範囲」「情報の伝達経路」がクリアに明示されていれば(ルールを守るかどうかは別の問題として)構成員の間で意見が対立することは原理的にありえない。

だから、ウチの夫婦は相談はしますが、意見や主張を巡ってケンカすることもないし、議論もしません。「家族」という社会組織の運営において「最終的に誰が、どうやって決める事案か」と言うことが常にクリアだから。お互いイラッと来てしまうことは、たまにはありますが。
もちろん、我が家にISO(国際標準化機構)みたいな細分化された組織運用マニュアル、厳密なルール・ブックがあるわけではありません。我が家における「判断基準」や「責任/決定範囲」はあくまで暗黙のコンセンサスですが、組織で意思決定するならば、それをクリアにしておけばいいだけの話です。「判断基準」や「責任/決定範囲」「情報の伝達経路」を曖昧(あいまい)にしたままシステムを放置するから、例えば福島第一原発事故の責任のなすりつけ合いのような醜悪な政治/企業運営が行われる。

「汚染水は100パーセント、コントロール下にあると総理はおっしゃっていますが?」
「その件については、わたくしどもの方ではお答えしかねます」
ある日のニュース

 「QAS」というのは一見、ごくシンプルな循環型意思決定システムですが、骨格さえしっかり出来ていれば組織のスケールは関係ありません。木造家屋だろうが、超高層ビルだろうが、アールヌーヴォー建築だろうが、土台があって柱があって壁があって屋根があってというフレーム・ワークは同じだから、意思決定のプロセス自体は、中小企業でも国連でも同じで良いのです。システム構造の設計が出来ていなければ、表面的な問題をいくら修復しても、本質的には何も解決しません。
 会社で上司の尻拭いに追われている方も、沖縄基地移設問題に頭を抱えている官僚の方々も、家に帰ったら、ご家庭の問題をよく考えてみて下さい。「それは最終的に、誰がどうやって決める事案なのか?」ということを。例えば、あなたは部屋の片付けの仕方で奥さんとケンカになった時、どうやって、どちらの方法が「正しい」と判断しますか? 妥協案や多数決を持ち出しても、本質的な解決には決して至らないし、きっと、またケンカになります。まずは「決め方」を決めなければなりません。そして、家庭は社会の縮図です。
家で出来ないことは会社や政府でも出来ないし、会社や政府で出来ることならば家でも出来ます。

*『人はなぜ生きるのか?』

 人間は言葉=理性を持ったことにより賢くなったと言うより、むしろ、ややこしくしちめんどうくさい存在となり、憎しみや悲しみや怒りに苦しむようになりました。支配欲も独占欲も金銭欲も裏切りもメンツも言葉があるからこそのこと。言語発生する以前、人間がまだ動物だった頃は、誰もそんなことに苦しんだりはしなかった。食い物がなくて困ったことや、寒さに震えたこともあっただろうけど、きっと、自殺するヒトなんて一人もいなかった。
それが聖書に書かれた「知恵の実」の比喩の意味だと私は思います。人類の不幸は言葉=知恵を持ったことによりはじまった。

 ふと、自分はなぜ生きつづけているのかという馬鹿ばかしいほどプリミティブな疑問が、脳裡をよぎる瞬間がある。そんな時、暗い奈落の底から視野に入ってくるのは、一群の若い死者たちの姿である。なぜ死んだのか、なぜ生きつづけられなかったのか。しかし、そう問うことは、逆になぜあなたたちは生きつづけられるのか、死者から問い返されることでもある。

「長距離ランナーの遺書」の中で沢木耕太郎さんはそう語っています。東京五輪の陸上競技で日本に唯一のメダルをもたらし、その後、頸動脈(けいどうみゃく)を剃刀(かみそり)で抉(えぐ)って自殺した円谷幸吉さん(1940-1968)について書かれた文章です。(文春文庫『敗れざる者たち』収録)
いくらオリンピックで念願のメダルを手に入れたとしても、その喜びは、いつかは醒めるし、むしろ、その後の人生で過去の栄光に苦しめられることさえあるかもしれない。どんなにがんばって夢を叶えたとしても、幸福になれる保証はない。また、ひたすらに恋焦がれ、待ち続けた王子様と晴れて結婚したとしても、その後には不幸な結婚生活が待っているかもしれない。そして、金持ちには金持ちの孤独やむなしさがきっとある。でも、言葉を必要としない動物的な愛(アフリカの草原の大樹の下、ライオンのお父さんとお母さんが寄り添い見守る前でライオンの兄弟がじゃれ合っているイメージ)に包まれている時にだけ、人間は真の幸福感に包まれる。それは人間が頭で作った概念としての幸福ではなく、動物としての人間にそもそも備わっている本能的な「満たされてる感」だから。
 現代日本社会は「夢プレッシャー」で溢(あふ)れています。「夢を持ちなさい」「夢に向かってがんばりなさい」「夢を持つのは素晴らしいことです」「将来の夢はなんですか?」……。
 まるで夢のない人は悪い生き方をしているようです。でも、そんなもの、一つの考え方、偏見、バインドに過ぎません。「夢を実現しなければならない/夢をあきらめた」と考えるから苦しくなる。愛があれば、夢なんてなくてもいいのです。
 あなたが念願のトップ・アイドル、大金を稼ぐスポーツ選手、尊敬を集めるノーベル賞受賞作家になったとしましょう。では、その夢が実現した後の人生を、あなたはリアルに考えたことがありますか?
人間が生きるために夢や目標や理由を必要とするのは、純粋に言葉を持ってしまったからこそのこと。
「夢」「目標」「理由」という言葉を知ってしまったから、脳の中に「人生」という言葉を書き込まれてしまったから人生について悩んでしまう。動物は生きることに理由なんて必要としない。虫も、花も、石も、存在の意味を必要としない。
 儚(はかな)きものの代名詞であるカゲロウは、ものを食べることもなく、成虫になってわずか一日の寿命で、その生命を終えます。じゃあ、何のためにカゲロウは生まれて来たのか? と人は問います。でも、これが生命のもっともピュアな姿です。そして、寿命の長さが違うだけで、生まれて来たことの意味はカゲロウも人間も変わりません。
 人間に与えられた本来の使命は三つしかありません。「食って、糞(くそ)して、子どもを作る」それだけです。文化的な衣をはぎ取ってしまえば人間も動物と同じ。頭の中に言葉がなければ、人間はただの動物です。だから、そんなに人生を難しく考える必要はないのです。ちゃんと食べることが出来て、健康で、子どもを元気に育てることが出来ればそれでいい。社会というのは、そのためにあるようなものだから。例え、自分で子どもを産むことが出来なくても、子どもを育てることは誰にでも出来る。もし私と妻が明日、揃って死んでしまったら、私たちの子どもが成長するまで、ほんの少しでいい。あなたの力を貸して下さい。
 人間は「人の間」と書きます。
たぶん、人間にとって一番不幸な生き方は無人島で暮らすこと。もし、人間に幸福を追求する権利があるのなら、それは孤独にならない権利。動物だって独りきり隔絶された環境に置かれたら生きてはいけない。でも、孤独になる、ならないは、本質的には社会の問題ではなく、きっと、あなた自身の問題です。だって、あなたが暮らす場所は無人島ではないのだから。

4:科学的な問題の解決マニュアル


*『真理への道』

 偉大な問題はすべて答えがわかってしまったのか? 探究する価値のある知の問題はすべて知られてしまったのか? 果たして「科学の終焉」を意味する「万物の最終理論」はあるのか? 偉大な発見の時代は終わりを告げたのか? こんにちの科学は単なるパズル解きと化し、既存の理論の細部を埋めるだけなのか?
 科学者たちは、つねに自分たちが特別だと考えてきた。なぜなら、科学は他の分野と違って、真理を「造る」のではなく「発見」するのだと信じてきたから。

 以上はジョン・ホーガン著『科学の終焉』(徳間書店)からの引用です。
 東洋思想は世界や宇宙、そして人間を含めた森羅万象をトータルで把握します。対して、西洋思想は対象を細分化することによって全体を把握しようと考えます。例えば、東洋医学では人間身体をホーリスティック(包括的)にとらえ、全体の気の流れの中で治癒を考えますが、西洋医学では、人体の血管の中の細胞の中の遺伝子の中の、そのまた中の、二重らせんの中の……と、限りなく対象を細分化する方向で問題を理解し、解決しようと考えます。だから、西洋の学問は、神学/哲学/数学/物理学/生物学/化学……と、限りなくジャンルが細分化されているわけですが、すべての学者、研究者、知的探究者の究極の願いは「真理」=「人間と宇宙の本当の姿」を知ることにあります。すべての学問は、究極的には同じゴールに辿り着くための方法論、手段の違いに過ぎません。では、ここから、その人類の目的地「万物の最終理論」まで私がご案内します。



 人間は、はるか古代ギリシャの時代から知的探究を続けていけば、いつかは「真理」に到達することが出来ると信じていました。でも、この考え方を1857年生まれのスイスの言語学者である「フェルディナン・ド・ソシュールさん」という人がひっくり返してしまいました。
 簡単に書けば、ソシュールさんは「人間は言葉という色眼鏡を掛けてしか物を見ることが出来ないから、決して世界のありのままの姿を知ることは出来ない」と主張したのです。そして、このソシュールさんが考えたことを基盤として、現代まで続く「記号論」という画期的な哲学分野が生まれました。
 例えば、私たちが森の中で寝転がり、一見ただ自然に身を委ね、自然と一体化しているような時でも、私たちは無意識に自分が認識している世界を「樹」「空」「雲」……という形で差異化(意味付け)しています。無知な私にとっては周りの樹は「樹」でしかありませんが、ある人にとって、その「樹」はさらに「スギ」「アカスギ」「クスノキ」「カシ」……と細分化された世界に見えるかも知れません。同様に、私にとってはただの「星空」にしか見えない世界が、ある人にとっては「ヤギ」や「オヒツジ」や「カニ」や「サソリ」等、無数の星座に囲まれた世界に見える場合もある。
 つまり、頭の中にある言葉によって世界の見え方はまったく変わってしまうのです。そして、人間は頭の中に言葉がある限り、この言葉によって記号化(情報化)された世界を抜け出すことはできません。
 科学者は一般に「哲学」を不確かな学問として軽視していますが、科学はそもそも哲学から派生した一分野であり、現代科学の根底にも紛れようもなく哲学的なものの見方は存在します。
1962年にアメリカで出版された『科学革命の構造』という書物の中で、科学史家トマス・クーン(1922-1996)は「人間は色眼鏡(その時代における常識/世界観/枠組み/先入観)を掛けてしか物を見ることが出来ず、科学の変遷とは、所詮、色眼鏡の色が変わるだけ」と主張し、彼の提唱した「パラダイム・シフト」という概念は現代に至るまで科学界に大きな衝撃と影響を与え続けていますが、この主張は本質的にはソシュールの学説と同義です。
では、人間は色眼鏡を外して裸眼となり、曇りのない眼で世界を見ることは出来ないのでしょうか? そして、科学は決して「真理」に辿り着くことは出来ないのでしょうか?
では、ここでちょっとタイム・トラベルして、100年後の2113年まで行き、22世紀のスーパーコンピュータによって作られた、未来の人工知能(Artificial Intelligence, AI)である『アダム』に訊いてみましょう。

「生命のはじまりとは何か?」
「宇宙のはじまりとは何か?」
「人間とは何か?」
「神とは何か?」

 『アダム』は考えます。ネット上に存在する膨大な科学理論や数式、哲学的宗教的見解から古典、神話の物語、そして、ミクロからマクロに至る、あらゆる映像や実験結果、ニュース、論文、講演記録からブログに書かれた陰謀説や噂話まで、情報や知識と呼ばれるものすべてを吸収し、事実上、無限のデータを徹底分析、最先端のプログラムを駆使して独自のアルゴリズムを導き出し、99.9999%、これが正しいと考える答えを我々に提示してくれる。そして、我々は「人間を超越した、ものすごく頭のいいコンピュータ」が教えてくれた答えに納得し、「うーん、なるほど。そう言うことだったのか」とスッキリする。それで全人類がスッキリすればそれはそれでいいのです。ただ……。
『アダム』が導いた答えを「これが究極の真理だ」と決めることは誰もが出来る。でも、それが本当に「究極の真理」なのかどうかは誰にも分からないし、知る術もない。と、ここまでは、哲学におけるソシュールや科学におけるトマス・クーン、もしくは数学におけるゲーデルの「不完全性定理」と同じ結論、つまり、原理的に答えられないという答え。

では、この壁を突破すると、その先に見えるのはどんな景色か?

『アダム』は神ではない。そして『アダム』には「自分は神だ」と宣言する以外、自分の導いた答えが「絶対に正しい」ことを証明する術がない。そう考えると、百年後、千年後、例え未来において、どれほど高度に科学が進歩したとしても、人間の根源的な問いはグルっと円を描いて振り出しに戻ってしまいます。難解な科学や数学の命題は解けたとしても、コンピュータには哲学の問題(~とは何か?)を解決することが出来ない。しかし『アダム』に「自分とは何者なのか?」と『アダム』自身の起源を思考させることは可能です。

『アダム』も含めて、この世界のすべてのはじまりとは何なのか? この世界はどこから来たのか?

 では、『アダム』に代わって私が『アダム』の起源を辿ってみることにします。
100年後の超高機能コンピュータである『アダム』の起源を未来から過去へ辿って行くと、その「はじまり」は、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズよりもはるか昔、ジョン・フォン・ノイマンやアラン・チューリングよりも、さらに前、1791年生まれのイギリスの数学者、「コンピュータの父」であるチャールズ・バベッジに辿り着きます。でも、バベッジが考案した「階差機関」のコンセプトの、さらに起源までさかのぼって行けば、古代ギリシャで紀元前に作られたとされる「アンティキテラ島の機械」に行き着くかもしれない。その「アンティキテラ島の機械」を作るためには数学や物理学の知識が必要で、そうした学問の起源を辿れば、そもそもはこの世界に文字や数が誕生する必要があった。では、文字や数とは何か? というと、人間の頭の中にあって、人間が相互にコミュニケートしている言葉をヴィジュアライズしたのが文字や数です。イルカやチンパンジーも言葉を持っていると考える人もいらっしゃるでしょう。「言葉とは何か」という問題を突き詰めてしまうと、人類学や言語学の非常にややこしい議論に巻き込まれてしまうわけですが、『アダム』が人間であれマシンであれ、問題の本質は「知性の起源」です。そして「知性の起源」とは「言葉の起源」に他なりません。
私は、それまで植物、昆虫から類人猿に至るまでの生物が使っていた「コミュニケーション言語(アナログ・システム)」が、自然界における、ある事件をきっかけに、ホモ・サピエンスという種の頭の中で「記号言語(デジタル・システム)」に進化したと考えています。原初の地球から突然、遺伝情報が発生したように。そう、言葉とは「情報の遺伝子」と呼んでもいいでしょう。

では、そもそも、その「情報の遺伝子」である言葉は、どうやって生まれたのか?

最初の情報は宇宙からやって来たと真剣に考えている科学者もいます。でも私は、この地球上で、情報が自然発生したと考えています。そして情報の起源、自然界に情報が発生した仕組みさえ分かれば、この世界の謎はすべて解けます。なぜなら、時間にせよ空間にせよ宇宙にせよ自分にせよ「存在」とは、すなわち情報だからです。

「世界」が生まれてから「言葉」が生まれたのではなく、「言葉」が生まれたから「世界」が出来たのです。物質である自然界に情報が生まれ、その情報によって人間は二次的な世界を作り出したのです。

この自然世界で、サルの頭の中に、あるきっかけで言葉=記号=情報が生まれたことにより、人間の歴史がはじまった。それが、この情報世界の創生を論じた言語発生起源仮説です。
この、言葉の起源についての議論は、とても奥が深く長くなってしまうので、ここではこれ以上、触れませんが、興味がある方がいらっしゃいましたら『THE ANSWER』を読んで頂けたらと思います。そこには、少なくとも、私が「答え」と考える「答え」が、ちゃんとハッキリ書いてありますから。

*『大統一理論(GUT)』

 この「言語発生起源」さえ理解していれば、それがどんな難問であれ、解けない理論的命題はありません。では「言語発生起源仮説」という刀がどこまで切れるか「大統一理論」という超難問で試してみます。
いきなり「大統一理論」と言われても多くの人には、何のことやらさっぱり分からないと思いますが、一言で言えば、アインシュタインが死の床で夢見た、そして、すべての物理学者が究極で夢見る「万物を統一する理論」が「大統一理論(Grand -Unified Theory=GUT)」です。ただ、多くの方々は「大統一理論」の前提となる最先端の理論物理学も、よく分からないと思いますので、科学雑誌『ニュートン』の「宇宙はほんとうに無から生まれたのか」という巻頭特集から記事を一部抜粋してみます。

 自然界には、重力、電磁気力、強い力、弱い力という四つの力がある。このうち、強い力と弱い力は、ミクロの世界でしかあらわれない。
 電磁気力、強い力、弱い力の三つについては、細かい点は未完成ながら、同じ枠組みの中であつかうことのできる(統一する)理論が存在するが、重力だけはどうにも統一されないまま残っている。ミクロな世界での重力をあつかえるようになる量子重力理論は、四つの力を統一する究極の理論になると期待されているのである。
 現在、この究極の理論に最も近い理論として注目を集めているのが、「超弦理論(超ひも理論)」だ。
 現在の物理学では、ありとあらゆる物質、および四つの力を伝えるものはすべて「素粒子」という、大きさのない「点」からできていると考えられている。素粒子の種類は多く、数え方にもよるが十数種類以上は存在する。実はこの状況に満足できない物理学者たちもいる。別に種類が多くてもいいではないかと思う人もいるだろう。しかし、物理学者は、自然界の現象をいかに統一的に説明するかを追求する傾向がある。『登場人物』は少なければ少ないほどよいと考えるのである。

 ……科学理論ってややこしいですよね。科学はいったい、いつからこんなにカルトでオタクな領域に踏み込んでしまったのでしょう?
 アインシュタインがなぜ一科学者にとどまらず、あれほどの世界的英雄になったのかというと、彼は本質的には「科学者」ではなく「哲学者」だったからです。すなわち「なぜ? どうして?」という子どものような疑問を素朴に突き詰めて行くうちに科学に新たな地平を切り開いた。だからこそ、その理論自体がよく分からなくても、大衆は彼の世界に対する眼差し、宇宙に対するスタンスに共感出来たのだと思います。
 ところが、アインシュタインの一般相対性理論(マクロの世界を扱う理論)の後に量子力学(ミクロの世界を扱う理論)が生まれ、この二つの理論の統合が物理学の悲願になった。この二つの理論を統合出来れば、それが「万物を統一する究極の理論」になると多くの科学者が考え、その急先鋒として出現したのが超ひも理論です。
 ごく簡単に言えば、超ひもとは大きさのない(長さのみが存在する)巻毛状の仮想物質。この、ひもの振動によって宇宙のすべてが形作られるという哲学が超ひも理論です。
 この、ひもは26次元の世界に存在すると想定され、実験によって検証することが不可能。超ひも理論は序論だけでも最低50回の講演が必要で、物理学者にすら全容を理解することは困難です。
 なぜ、こんなにややこしいことになってしまったのか?
 ニュートンやアインシュタインは「なぜ? どうして?」という素朴な疑問から科学しました。けれど、現代物理学の最先端では数学的な整合性を取るために、科学的にではなく数学的に理論を組み立てているからです。つまり、現代の先端的理論物理学者たちは、自分たちが扱っている理論が実際の現実自然世界と関係があるかどうかはおかまいなし、理論のための理論であることを先刻承知で科学しているのです。現実には作れないバーチャルな料理のレシピを一生懸命書いているようなもの。
 冷静に考えれば、26次元に存在する検証不可能な、そして説明に膨大な時間を要する仮想物質についての理論なんて『空想科学読本』の中でSFアニメ「機動戦士ガンダム」のミノフスキー粒子について研究することと同じであることは自明と思います。
 百歩譲って、超ひも理論が「万物の最終理論」だと証明されたとしましょう。その理論を理解出来る人がこの世界に何人いるのでしょうか? そして、そんな誰にも分からないようなマニアックな理論が万物を統一したとして何か意味があるのでしょうか? それで万物を説明した、理解したと言えるのでしょうか?
 なぜ、この超ひも理論に多くの科学者が熱狂しているのかと言えば、他に「万物を統合する理論」の候補が存在しないからです。でも、もっと単純に考えてみて下さい。ピダハンは、とっくに、過去と未来も時間と空間も有と無も、そして四つの力も統一しているのです。彼らは、そうした概念を元々、区別していないから。つまり、言葉をゼロにすれば万物は簡単に統一出来る。すなわち、それが「大統一理論」なのです。時間や空間、過去や未来、粒子と反粒子、虚数と実数、ミクロやマクロを区別して考えている科学者の方が大いなる勘違いをしています。常識は必ず覆(くつがえ)る。かつて、天動説が世間の常識だったように。そして、地動説がそれまでの世界観を180度反転させたように。

「まあ古代ギリシアの宇宙論のことを考えてみてほしい。そのころの人間は宇宙を亀の背に乗った球だなどと信じこんでいたではないか。今でこそわれわれはこの迷信を笑っているが、今から100年後の未来の科学者たちは、この20世紀の宇宙モデルを顧みて何と思うだろうか? おそらく今のわれわれと同じように頭をふって呆れかえるにちがいない」

プリンストン高等学術研究所教授であり、アメリカ物理学会の会長も務めたジョン・バーコールの言葉です。
 情報は細分化すればするほど下から上に向けて逆三角形を描いて、どんどんどんどん膨張して行くわけですから、難しく考えれば考えるほど、新しい概念を作り出せば作り出すほど統一からは遠ざかります。だから統一するのならベクトルを真逆に向けて、情報が拡散する前のゼロ・ポイント「逆三角形の頂点=言語発生起源」で統一するしか方法はないのです。
もともと区別する必要のないものを区別して考えて、それを今度は統一しようとしているわけですから、統一するなら区別しなければいいだけの話です。コロンブスの卵と言うかコペルニクス的転換として。
 もともとあったのは一枚の「象の絵」です。人間は、その「象の絵」をどんどんどんどん細かいピースに分けて行き、やがて元々何の絵が描かれているのか分からなくなってしまった。そして今度は、そのバラバラになってしまったパズルを復元するために、さらに細かくピースを砕いて余計に訳が分からなくなってしまっているのが現代の科学です。手の中にあるパズルの欠片(かけら)をいくら顕微鏡の拡大倍率を上げて研究してみても、決して絵の全体像は分からない。でも、完成したパズルをロング・ショットで俯瞰すれば、そこに描かれているのが「象の絵」だということは誰でも分かる。
現代科学のすべてが無駄と言うつもりはありません。ただ、難解な専門用語や数式を使った理論の方がかっこよく説得力があるように感じられますが、一方で多くの(まっとうな)科学者が考えるように、大統一理論の目標は「あらゆるものの理論」をTシャツの胸にプリント出来るほど簡明にシンプルに記述することにあります。
かつてアインシュタインは「科学と宗教はいずれ一つに結びつくだろう」と語りました。科学理論のみならず、科学と宗教も言葉の発生起源(情報起源)というゼロ・ポイントで完全に統一出来ます。なぜなら、哲学も科学も宗教も、すべては情報に過ぎないからです。
 私は、この逆三角形の頂点に君臨する言語発生起源仮説こそが「万物の最終理論」=「最終的な情報の統合」であると確信しています。科学的に証明出来るかどうかは関係ありません。あなたが納得出来るかどうかの問題です。そして全人類が納得した時に、その答えははじめて真理になるのです。

*『生命の起源』

 「生命の起源とは何か? 生命はどのようにして地球上に発生したのか?」ということもまた、生物学者のみならず、人類究極のテーマと言えるでしょう。では生命の起源について考察する前に、まず、前述した『結婚というバインド』の内容に立ち返ってみたいと思います。
例えば、私がAさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、という5人の女性と交配し、各々の女性が二人ずつ子どもを産んだとします。そうすると、社会通念を外して考えれば、この10人の子どもは私にとっては等しく自分の子どもです。しかし、女性であるAさんにとっては自分の子どもはあくまで自分にとっての二人の子どもだけ。だから、私がAさんと、彼女の子どもだけをプロテクトする=家庭を持つ、というのは生物としてはナチュラルな有り方ではない。というのが結論でした。
では、そこからさらに進んで、なぜ、ヒトのオスとメスは、このような違う生物学的ミッションを持っているか考えてみて下さい。
 もし、この世界に男性(アダム)と女性(エバ)が一人ずつしか存在しなかったとします。そして、このペアの間に男女一人ずつ子どもが産まれたとします。その男の子と女の子が交配(近親相姦)し、また子どもを生むと、血が濃くなり過ぎて、遺伝子の多様性が失われる。でも、もし、この世界に男性一人、女性二人がいて、男性の遺伝子が二人の女性に受け継がれ、彼女たちが男女一人ずつ、計4人の子どもを生めば、次の世代の遺伝子には4通りの組み合わせパターンが生まれる。そうすることによって遺伝子は多様性を獲得し、より広く頒布(はんぷ)して行くことが可能になります。
オスは遺伝子を受容体にインプットするのがミッション。一方のメスはインプットされた遺伝子を体内で自分の遺伝子とミックスし、ハイブリッドされた遺伝子をアウトプットするのがミッション。そのオスとメスの役割分担によって、ヒトは種として繁殖、繁栄して行った。そもそもは、こうしたストラテジー(戦略)を取るために、生命は「性」を分化する必要があったわけです。こうしたオスとメスの交配によって繁殖した種が、さらに環境に適応し分岐して行くことによって現在の多様な生態系が形成された。
ここまでが大枠でチャールズ・ダーウィン(1809-1882)の進化論です。でも、ダーウィンには、どうしても分からないことがありました。
遺伝情報という側面から進化論を考えれば、すべての生物種はどこかで系統樹につながっている。では、その系統樹を一番根元まで辿って行った時、最初の種子はどこから来たのか? というのが生物学における最大の謎です。
 現在、この問題について、生命の種子は宇宙からやって来たのだ(パンスペルミア仮説)と考えている科学者もたくさんいます。
普通、私たちは「ネコ=生命」「石=非生命」と考えています。でも、この生命/非生命の境界線の定義は、今のところ誰にも出来ていません。つまり「生命の起源とは何か?」を考える前に「生命とは何か?」という問題すら解決出来ていないのです。
一般に、自己複製出来る個体を「生命」と考えている方が多いと思うのですが、例えばコンピュータの中で自己複製する「人工生命」という生命が存在します。

人工生命は、最後のかなりのページが切り裂かれた探偵小説のようなもので、もともと生命がどう発生したかをはっきり決定付けるものにはならないだろう。しかし人工生命の実験によって開拓された、創出についての新しい方法論は、生命の起源を含む生物界の謎をより深く理解できる可能性を持っている。スクリプス研究所で、長年にわたって生命の起源に関する細かな事実を追いつづけてきた若い医学研究者ジェラルド・ジョイスは、90年代の初頭に生命の起源の実験に対して人工生命の手法を使い、より保守的な仲間と一線を画するようになった。彼はRNAの世界(彼はカウフマンと違って、これが生命の生成の鍵になる段階だと信じているが)を定常的にシミュレーションしており、研究室で起こっていることが、前生命的な地球の状況とよく似ていることを認めている。
スティーブン・レビー著『人工生命』(朝日新聞社)

 ゆえに「生命とは何か?」を考えはじめてしまうと、何が何だか分からなくなってしまうので、シンプルに「遺伝情報を持つ個体=生命」と考えてみます。遺伝情報とは何か、というと、それが細胞の中にある遺伝子に書き込まれている情報です。そして、遺伝子は「DNA」「RNA」「タンパク質」という三つの概念によって成立しています。
現在、遺伝子ベースで生命の起源を考えている生物学者の学説は三つ。原初、生命の発生基盤がどこにあったかで意見が分かれ「DNAワールド仮説」「RNAワールド仮説」「プロテインワールド仮説」という三つの考え方が提唱されています。この三つの仮説を統合出来れば、それが生物学における「大統一理論」になります。
ただ門外漢には、DNAとかRNAとかプロテインとか言われても混乱してしまうので、仮にDNAを「オス遺伝子」、RNAを「メス遺伝子」、プロテイン=タンパク質を「こども遺伝子」と呼んでみることにします。
 このオス遺伝子がメス遺伝子とセックスして「タンパク質」という名前の子どもが生まれるプロセスの名称が「エヴァンゲリオン」で有名になった「セントラルドグマ」。
 一般的には「オス/メス」=「ペニスのある方/ヴァギナがある方」という形状でイメージをしてしまうけれども、生命の本質が情報であるならば「インプットする方(オス)」+「インプットされる方(メス)」→「ハイブリッドされた情報(子ども)」というのがシステムの構造です。
 さてここで『真理への道』のチャプターを振り返ってみます。
 私が考える言語発生起源仮説というのは、単純に言うと「イヴ」というサルの頭の中で、視覚(ヴィジュアル・データ・インプット)と聴覚(オーディオ・データ・インプット)が偶然コネクトしたことによって言葉=記号という「最初の情報」が発生した、という仮説です。考古学的、人類学的には何の根拠もありません。紙とペンすら使っていません。純粋思考のみで辿り着いた結論です。
私たち人間が認識する世界が「物質+情報」で成立しているように、生命も「物質+情報」で成立しています。であるならば、脳(物質)から記号(情報)が発生した仕組みと、単なる物質から遺伝情報が発生した仕組みは相似形と見なすことが出来るのではないか、というのが今回、私が立てた仮説です。前者を「言語発生起源仮説」と呼ぶならば、後者は「遺伝情報起源仮説」。
 もし私の考え方が正しいならば、ある程度の複雑な構造を持った物質(言語発生における脳に相当するもの)に二方向から刺激が加わり、その二種類の入力が偶発的にコネクトしたとすれば情報が自然発生することは可能だった。
 具体的にどのような物質の中で、どのような刺激とどのような刺激がコネクトしたのかは、私には分かりません。ただ、その二方向からの入力を行ったのが「太陽」と「地球」であることは間違いないと思います。
 オス(インプットする方=DNA)に相当するのが太陽、メス(インプットされる方=RNA)に相当するのが地球、その両親の間に産み落とされた子ども(タンパク質)が、私たち生命なのだと思います。
 恐らく生命は、神の意思が働いてこの地球上に誕生したわけでも、どこか目的地があって進化して来たわけでもないのです。生命の誕生と進化は、地殻が変動することと同じ単なる自然現象。生命の発生も、人が生まれ死んで行くことも、石が転がり割れ、その欠片が川に落ち、流れに削られて丸くなり、海まで運ばれることと同じ森羅万象における自然の営みの一つ。逆に考えれば、ある物質の中で二つの刺激がコネクトすれば、地球以外の場所にも、情報体としての生命は発生し得るのではないでしょうか?
 まあ、生命がどのようにして発生した(する)のかが分からなくても、誰も何も困らないわけではありますが。
 何でもかんでも知りたがるのは人間の長所でもあり、短所でもありますが、他の惑星に生命体が存在するか、否かを調べるためだけに、より小さな素粒子を探すだけのために、気が狂ったように莫大な国家予算を使うのは、いかがなものだろうか? とは思います。自分の金で何かするなら「やりたいから」で理由は十分ですが、他人の金で何かするなら「何のために」という視点はやはり必要だと思う。例え、人間に、そして生命に存在することの意味も理由もなかったとしても。

*『病のメカニズム』

「あんたねー、病気なんて、女のケツ追っかけて、野山を駆け回っていれば治っちゃうのよ!」
 昔、私の主治医だった女医の言葉

 私の部屋には顕微鏡も試験管もありませんし、赤血球と白血球の違いも分かっていません。なので、見当違いなことを書いているかも知れませんが、これは医学のド素人が純粋思考のみで行った、病という情報系のシステム解析だと思って読んで下さい。
病気もまた、一つの情報のカタチと考えた場合、人間社会からすべての病を駆逐することは可能でしょうか?
難しいことを考えなくても、人間が病気にならない方法が一つだけあります。引用した先生の言葉ではありませんが、そのための「万能薬」とは動物(動く物)として生きること。少なくとも私はガンで死んだ、という野性動物の話を聞いたことがありません。
 人間に飼育されている動物はいろいろな病気に掛かります。なぜか? ストレスからです。そのストレス=圧力をかけているのは人間です。では、なぜ人間はストレスを抱えるか? 言葉を持っているからです。言葉を持たないナチュラルな自然存在は、人生について悩まないし、意図や企みを持ちません。ゆえに自分自身や他の自然存在に不自然な負荷を掛けない。
 単純に考えてみて下さい。今の不自然で人工的な除菌ブームが極限まで推し進められて、人間が完全な無菌状況下で生活するようになったとします。そうすると、完全無菌状態に身体が適応した人間は、ほんのわずかな菌に感染しただけで死ぬようになると思います。逆に菌がたくさんいる環境に適応した人間の身体は強くなる。
 現代日本社会は「除菌、除菌」と大騒ぎですが、例えばピダハンのような人々は、手や食器や食材を除菌することなく食事をしても、まったく問題はないわけです。そうした生態系の調和の取れた場所に、ばい菌を持ち込むのは、むしろ先進国の人々です。
ばい菌とは、人間の意図に反して増殖した、有害な微生物(細菌/菌類)を指します。ウィルスも一種のばい菌ですが、ウィルスは細胞(身体)を持たないため、一般的には生命とは見なされない情報体です。言うなればハードディスクを持たないデータそのもの。
野性動物がいわゆる病気を発症しないのは、自然存在にとってウィルスは悪として作用しないからです。では、なぜ人間にとってはウィルスが悪になるか?
ウィルスとはすなわち、人間に対する地球生態系の自衛メカニズムなのだと思います。言い換えると、人間というウィルス・ソフトに対して働く、自然界のアンチ・ウィルス・ソフトが本物のウィルス。
 人間は、ウィルスを敵とみなして攻撃しますが、地球生態系にとっては、人間の方がむしろ悪性腫瘍のようなもの。では、なぜ人間が悪者になってしまったかと言えば、言語発生し、言葉という二次(亜種)情報系を持ったことにより、人間が反自然的な存在になってしまったからです。
 例えば、環境破壊を生み出す資本主義経済という思想/概念/意図/企みの起源を、ずーっと過去にさかのぼって行けば、そもそもの原因は言葉の発生にあったわけです。
だから、人間を苦しめる病全般の根治を考えるならば、ウィルスを悪と見なしてやっつけるというスタンスから、ウィルスを悪者に転化させない方法を考えるべきです。
 心の病が心の自衛メカニズムであるように、人間をウィルスによって死に至らしめるのは、地球生態系の自衛メカニズム。心の病の根治を考えるならば、心を薬物で無理やりコントロールすることを考えるよりも、心が病む原因を突き止め、その原因を作っているストレスを取り除くことが必要です。
 言葉という眼には見えない記号(情報)が地球に物理的に作用することが感覚的に腑に落ちないかも知れません。でも、言葉はストレスを作り、そのストレスは人間を蝕(むしば)みます。そして、人間が病んで不自然な文明を作れば、地球も病みます。地球が病めば、生態系もウィルスという防衛システムを発動させて、人間というウィルスに反撃する。もし、今の形での文明を人間が無理やり推し進めて行けば、間違いなく、地球生態系はより強力な防衛システムを発動させるでしょう。
生態系を抑圧するストレスの原因を作っているのは人間です。その人間社会からストレスが消えて、人間が健全になれば、地球も病む必要がなくなるし、地球に病む必要がなくなれば、人間が病に苦しむこともなくなります。
 すべての病気の根源は、ストレスにあると私は考えています。ストレスを抱えなければ、人間も地球も病気にはならない。
 ストレスを抱えない人生なんて、有り得ないと思いますか? 私は有り得ると思います。
人間が、そして地球が根っ子から健康になるためには「言葉の断捨離(だんしゃり)」をすることが必要なのではないでしょうか?
散らかった部屋の中から余計な衣服や装飾品を見極め処分するように、人間の頭の中から不必要な言葉を取り除いていけば、人間は余計なことは考えずに済むし、ストレスも抱えない。そして、誰もが不必要な情報を、未練を残さず思い切って捨ててしまえば、自ずと社会もシンプルなものとなり、自然との調和を取り戻す。その「言葉の断捨離」のお手伝いをさせて頂くガイド・ブックが本書『ハートメイカー』です。
盲目的なエコロジーを唱えるつもりはないし、狼と兎が寄り添って眠ることができるとも思ってはいない。人間が、みなピダハンになればいいとも思わない。けれど、手遅れになる前に、地球生態系との戦争を終わらせることが人類の総意であることを願って止みません。

5:宗教的な問題の解決マニュアル


*『聖書の解読』

 まるで、パレスチナ人を「強制収容所」に押し込める壁のようだ。これが私の第一印象でした。かつてナチス・ドイツによって強制収容所に入れられたユダヤ人たちが、今度はパレスチナ人に対して、「強制収容所」を建設しているかのようにも見えてしまうのです。
池上彰著『池上彰の「世界が変わる!」』(小学館)

 パレスチナ自治区とイスラエルを分離する壁を池上彰さん(1950-)が取材したおり、書かれた文章です。この壁は高さ7・5メートル、厚さ3メートル、完成すれば全長700キロに及ぶ巨大なコンクリート壁。壁の上部には鉄条網が張り巡らされ、随所に監視塔があります。
 パレスチナは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三つの宗教の聖地・エルサレム(シオン)を擁する土地です。パレスチナ問題は様々な事情が複雑に錯綜しているので、ここで踏み込んだ言及はしませんが、国と国を分け、民族を対立させている最大の要因が宗教であることは間違いありません。
世界三大宗教はキリスト教、イスラム教、仏教を指します。信者数で言うと、キリスト教徒が約20億人、イスラム教徒が約13億人、仏教徒が約3億6千万人と推定されています。ユダヤ教を信仰する民は、世界中で推定1400万人。(2013年現在)
日本人の多くは信仰を持ってはいないし、神を本気で信じているアメリカ人も少なくなって来ました。でも、クリスマスやお葬式等の表面的なイベントだけでなく、現代人のものの見方や価値観の根底には紛れようもなく宗教が横たわっています。そして、この宗教的な世界観が民族間の対立を生み、場合によっては戦争を引き起こす。
では、ここから人間同士の対立を生み出す「宗教」というシステム(情報)を解体して行きたいと思います。
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が、その信仰の根源的基盤としている「聖書」。一般的に「聖書(バイブル)」といえば、神への信仰について書かれたキリスト教の聖典というイメージがあります。しかし、そもそも、この「聖書」という書物、いったい誰が何のために書いたのでしょう?

 ★「創世記」→★「最初の預言者、アブラハム」→★「モーセにまつわる神話」→★「モーセ以降の旧約聖書」→★「聖書とは何か?」→★「後継者としての預言者たち」→★「現代社会における『パレスチナ問題』」-----という流れで、順を追って考えて行きたいと思います。

★創世記

 まず、創世記(旧約聖書・冒頭)に登場する有名な「ノアの方舟(大洪水)」の物語ですが、実は旧約聖書よりも前に成立していた「ギルガメシュ叙事詩」が原型になっているという見方が現在、有力になっています。
 歴史の教科書で有名なチグリスとユーフラテス川に挟まれた肥沃な大地メソポタミア(現在のイラク・クウェート)。この南部に世界最古の都市文明・シュメールがありました。このシュメール王朝時代の文献、旧約聖書よりも古い資料である「ギルガメシュ叙事詩」を記した最初の断片が1786年、フランス革命の3年前に、あるフランス人により発見されました。以降、この「ギルガメシュ叙事詩」の書かれた粘土板の発見と解読は徐々に進んで行くのですが、この「ギルガメシュ叙事詩」の中に「ノアの方舟(大洪水)」の物語と細部まで、そっくりそのままの記述が存在していたのです。
 旧約聖書の中でも、特に解釈の分かれる創世記。この創世記が、どんな流れになっているか、というと、

■天地創造(神が登場して最初の七日間)→■アダムとイヴ(最初の人間)→■カインとアベル(アダムとイヴの息子たち)→「ノアの方舟」(大洪水神話)→バベルの塔(言語の分断)、そして、そこから最初の預言者・アブラハムの生涯と、その子孫の物語へと進んで行きます。
ちなみに「アブラハム」はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通始祖であることから、この三つの宗教を総称して「アブラハムの宗教」と呼ぶこともあります。

まず、天地創造の物語ですが、これは旧約聖書成立以前から語り継がれてきた「言葉の起源」についての神話が脚色されたものと考えることができます。なぜなら、聖書の作者たちは、この世界の始まりが言葉だったことを知っていたからです。それは聖書(ヨハネによる福音書)にもはっきりと書いてあります。

はじめに言葉ありき、
言葉は神とともにありき、
言葉は神であった。

と。
神がいなくても言葉があれば、この世界は創造出来ます。
 「この世界は神が七日間で創った」と考えるか「自然界に言葉(情報)が生まれ、世界が細分化(闇/光/空/地/海/獣/人……etc)されて行った」と考えるか、どちらの方が現実的に筋の通る天地創造の説明となるかは自明と思います。神が精神の中に存在する以上、神ですら情報(言葉)であることは間違いありません。つまり、神が言葉を作ったのではなく、言葉が神を作った、ということです。
 そして、この天地創造から連なる「アダムとイヴ」「カインとアベル」までの流れは、大なり小なり、世界中の起源神話(最初の男と女から子孫が増え広がって行く話)と共通しています。ギリシア神話から日本の古代神話(イザナキとイザナミによる天地開闢)に至るまで構造は同じ。なので、だいたいどこの国でも似たり寄ったりの「世界(人間)の始まりの物語」と考えれば、特に不思議な所はない。
続く「ギルガメシュ叙事詩」(「ノアの方舟」の元ネタ)に書かれた大洪水が何を意味するのかについては、後述する『古代文明の原理』に譲(ゆず)ります。
 あくまで仮説ですが、旧約聖書の成り立ちを推測すると、以下のように考えることができると思うのです。
「ギルガメシュ叙事詩」に描かれているシュメール王朝に暮らしていたシュメール人(「混ざり合わされた者」の意を持つ)が、そもそものユダヤ人の先祖。
このシュメールを、紀元前1700年頃、バビロニア(バベル/バビロン。メソポタミア地方の古代都市)が征服。この時、バビロニアに捕らわれたユダヤ人たちは「ギルガメシュ叙事詩」を知っていた。
バビロニア滅亡後、カナン(約束の地=パレスチナ)に移り住んだユダヤ人たちが、古代神話をベースに、神を主人公(第三者視点の話者)に据えた天地創造の物語を考案。その後「ギルガメシュ叙事詩」に描かれた(実際に起きた大事件である)大洪水のストーリーを加え、「ノア」という名前のキャラクターを、その「大洪水事件」の主人公に設定、彼に「神に選ばれし者」というコンセプトを与えた。
 続くエピソードにある「バベルの塔」。このお話は、ウィキペディアから要約を引くと、

もともと人々は同じ一つの言葉を話していた。人々は東に移住し、シンアル(後述する「ニムロデ」の王国)の野に集まった。彼らは煉瓦とアスファルトを発明した。
神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。しかし人々は、これら新技術を用いて天まで届く塔をつくり、人間が各地に散るのを免れようと考えた。エホバは降臨してこの塔を見「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」と言った。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。

 というエピソードです。ちなみに「バベル」とは、ヘブライ語で「混乱」を意味します。
現在、この「バベルの塔」は、バビロンにあったジックラトではないかと考えられています。ジックラトとは「高い所」を意味する神殿。この、ジックラトが現れるのが紀元前3000年頃のシュメールにおいてですから、創世記のそもそもの起源である「ギルガメシュ叙事詩」に記述があったとしてもおかしくはない。そして、当時、その土地=多神教の都市・シュメールで使われていた単一言語=「孤立した言語」と考えられている「シュメール語」が、神の怒りとしか思えないほどの大洪水によって分断され、多言語化した。そのエピソードを描いたのが「バベルの塔」なのだと思います。
「ユダヤ戦記」の著者であるヨセフスによる「ユダヤ古代誌」には以下のような記述があります。

ニムロデ(「創世記」におけるノアの子孫)は、もし神が再び地を浸水させることを望むなら、神に復讐してやると威嚇した。水が達しないような高い塔を建てて、彼らの父祖たちが滅ぼされたことに対する復讐をするというのである。人々は、神に服するのは奴隷になることだと考えて、ニムロデのこの勧告に熱心に従った。そこで彼らは塔の建設に着手した。……そして、塔は予想よりもはるかに早く建った。

つまり「バベルの塔」が「ギルガメシュ叙事詩」に描かれた(実際に起きた)大洪水の後の、ジックラト(水が達しないような高い塔)に関するエピソードと考えれば、つじつまは合うわけです。聖書研究者の多くによれば(聖書にある年代をそのまま計算すると)「ノアの大洪水」が起こったのは、紀元前3000年頃と推定されています。ジックラトの建設がはじまったのも紀元前3000年頃。「バベルの塔」は「ノアの大洪水」後のエピソードとして語られているわけですから、タイミング的にも史実に符号します。

★最初の預言者、アブラハム

そして、この「バベルの塔」に続く物語の主人公・アブラハム。
彼は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じる聖典の民の始祖であり「ノアの洪水」後、神による人類救済の出発点として選ばれ、祝福された最初の預言者。つまり、神という創造主と人間という生身の存在をつなぐ(コネクトする)人物です。
厳密に言えば、聖書においては全人類の共通始祖がアダム、イスラエルの民の共通始祖がアブラハム。ここで言うイスラエルとは血縁集団ではなく、神からミッションを授かった民、の意味。そして、神からはじめてミッションを与えられた人間がアブラハムです。
ここで行われた「神と人間の約束」が、現在のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の基本であり、本質的には、この約束が現代世界を動かしているのです。様々な思惑が複雑に錯綜(さくそう)する中東問題も、カトリックとプロテスタントの対立も、バチカンが存在することの意味/理由/根拠さえも、この約束がゼロ・ポイントにおける起源になっています。つまり、現代社会の宗教の絡む問題の大半は、大元を辿れば、この時の約束が原因なのです。
では、この時の「神(創造主)と人間(アブラハム)の約束」とは、どんな約束だったのかというと……。

あなたは、
あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、
あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上の全ての民族は、あなたによって祝福される。

 とか、

さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、
永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

 というものです。
一般に、この、神と最初の約束を果たした「アブラハム」という人物は、伝説と歴史の間に生きる神話的人物と考えられていますが、アブラハムさんは、純粋にリアルな歴史上の人間だったと私は思います。
そして、このアブラハムさんが、それまで住んでいた移住先の先住民(恐らくは、海の民=ペリシテ人)を追い出し、その地における自分の支配権を確立するために「創世記」という神話を作ったと考えると、すべてのつじつまは合います。
恐らく、アブラハムさんは、バビロニア崩壊後、シュメールの首都・ウルから出発してカナンに辿り着いた民(ユダヤ人)たちのチーム・リーダー。そして、彼と彼のチームによって、先住民が信仰を捧げていた多神教に対抗する(自身たちを正当化する)ためのコンセプトとして生まれたのが「唯一絶対神=GOD」なのではないでしょうか?
そして、自分たちがキャラクター設定を行った「神」という名の創造主と自分が契約を交わすというエピソードを作ることによって、自分たちの民の存在を正当化(神格化)した。
そして、旧約聖書では、その、アブラハムたちの移住のエピソードの後、アブラハムの家系へと繋がる物語へと入って行く。このアブラハムたちが入植した土地が、現在のパレスチナ(カナン/シオン/エルサレム)。そこまでが「創世記」と呼ばれる文書です。

★モーセにまつわる神話

続く「出エジプト記」はこんなお話です。(参考文献:雨宮彗著『図解雑学・旧約聖書』)

■奴隷(レビ族=イスラエルの氏族)の子・モーセが、エジプト人に虐待されている同胞を見て怒りにかられ、エジプト人を殺し、砂に埋める。→■ファラオの追跡を逃れ、エジプトを脱出するモーセ→■シナイ半島(スエズ運河の辺り。現在は高級リゾート地)の山で「神の啓示」を受けるモーセ。神はモーセにミッションを与えます。「同胞(イスラエル人)をエジプトから救出せよ!」→■モーセは民を引き連れてエジプトを脱出。その後、神の導きにより海が割れる奇跡が起こり、モーセたちは三か月かけてシナイ山に再び辿り着く→■三日後、モーセは再び「神の啓示」を受け、有名な「十戒」というルール・ブック(偶像崇拝や殺人、姦淫の禁止等)を神から授かる。民は、このルールに従うと宣言する。→■ところが、この民たちは、結局、このルール・ブックを無視して、モーセとは別の神様を作りだし、結果、モーセ&彼の神を裏切る。→■モーセ、裏切った民3000人を虐殺。→■神の直接の指示により、モーセを仲介者として、神と民は再契約を交わす。→■モーセに率いられた民は、シナイを出るが、ヨルダン川東岸でモーセは死ぬ。この時に、モーセの残した遺言が「申命記」→■最終的にイスラエルの民は「約束の地、乳と蜜の流れる地」であるカナンに辿り着く。

 こうした「モーセにまつわる神話」は、以下のように解釈することができます。
 そもそも、イスラエルの民の始祖であるアブラハムはシュメールのウルからチグリス・ユーフラテス川沿いに進み、地中海沿岸を下って「カナン」に入植しました。その後、アブラハムの子孫であるヤコブと、その息子、孫たち、総勢70人がエジプトに入植。数百年後、イスラエルの民はエジプトで国に溢れるほど増え広がります。ファラオ(エジプトの王)は、イスラエルの民の増加を食い止めるために、彼らに強制労働を課した。そうしたプロセスを経て、エジプトから「カナン」に出戻ったイスラエルの民のチーム・リーダーがモーセです。
 引き連れた膨大な数の民を、モーセが取りまとめるためには、リーダーとしての自分の地位を確立し、憲法(ルール)を統一する必要がある。しかし、当時は司法制度が整っていませんから、そうした統制は神の名によって行うしかない。つまり、モーセが神の名を借りて発布した憲法が「モーセの十戒」だったのだと思います。そして、この時、施行されたモーセの憲法は「姦淫の禁止」を含めて、広く現代社会に至るまで倫理基盤になっています。でも、それは、神によって定められたルールではなく、あくまでモーセという一人の人間が考案したルール。
 モーセは常に神の導きによって行動したことになっていますが、後世の指導者(聖書の記述者)たちが民を統制するためには、モーセと彼の憲法を神格化しておくことが必要不可欠だったわけです。
 潮の干満で、それまで海岸だったところが干上がり、陸地(通行可能)になることは、それほど珍しいことではなかったと思います。そうしたエピソードを民を取りまとめるために大袈裟に描写したのが、恐らくは、あの有名な「海が割れた」という伝説。実際に聖書の資料によっては「海が割れた」のではなく「海が渇いた土地に変わった」とする記述もあります。また、モーセはシナイの山中において、一人きりで「十戒」の記された石板(ルール・ブック)を神から授かったわけですから、当然、自分で書いてしまう(石に文字を刻んでしまう)ことは可能だったと思います。まだ、筆跡鑑定のなかった時代ですから。ちなみに「モーセの十戒」が書かれたとされている石板=アークは現在に至るまで発見されていません。

★モーセ以降の旧約聖書

さて、この後、モーセの後継者・ヨシュアによって、念願のカナン入植(軍事制圧)を果たしたイスラエルの民。しかし、そこではバアル神(稲妻を主武器とする雷神)をはじめとする異教の神がはびこり、人々の心はしだいにモーセの神から遠ざかります。こうした状況下で立ち上がったのが「志師」(裁く者)と呼ばれる12人のカリスマ指導者たち。しかし、彼らは常備軍を持たなかったため、外敵(鉄の武器で武装した軍隊を持つペリシテ人)と戦うためには志願兵を募らざるを得なかった。そこで、このような国家体制では乗り切れないという現実に直面し、イスラエルに王制が登場します。
 このイスラエル王国の、くじ引きで選出された初代の王様がサウル。
 この時のイスラエル王国は、現代日本の象徴天皇制とほぼ同じで、最高位は神ですが、実際に統治(政治)を行っていたのは王様です。この王制への移行は、国民の不満の声も大きく、サウルにも苦労が絶えなかったようです。
サウルはペリシテ人との戦に敗れ、自害し、死体は敵のさらしものになってしまいます。次の王様が、サウル軍の旗頭であったダビデ。そう、巨人・ゴリアテ(太い槍を持つペリシテ軍の勇士)を、石ころの一撃で倒した伝説の羊飼いの少年。この、ダビデが周囲の敵を打ち倒し、首都エルサレムを中心とした統一王国の基礎を築きます。
なぜ、首都(聖地)をエルサレムにしたかというと、南北融合を図るダビデにとって、その中間地点にあるエルサレムが何かと都合良かったからです。そして、イスラエルの統一を成し遂げたダビデは、東西南北の土地を、すべて制圧します。
しかし、この、ダビデは人妻と姦通、妊娠させてしまい、その罪によって弱体化。王位継承争いが勃発し、息子たちは次々と死に、やがて、三男が父親であるダビデに反旗を翻して、ダビデは病床の老人になってしまう。そして、このダビデはソロモンに王位を譲ります。
これが、だいたい紀元前1000年頃。日本では弥生時代の始まりに相当します。
ソロモン王(700人の王妃と300人の側室を持つ)は諸外国との外交関係、学術交流を重視し、彼の治世の元、(国民の税金によって)統一王国は広大な版図を築き、繁栄を謳歌するのですが、ソロモン王の死後は、社会格差が拡大、内乱、戦乱の時代が訪れ、王国は南(ユダ王国=老人たちの国)北(イスラエル王国=若者たちの国)に分断、最終的には、パレスチナの統治権を巡って新バビロニアVSエジプトの対立となり、エルサレムの町は焼かれ、多くの民がバビロンに捕囚され、残った者はエジプトに避難するなどして世界中に離散した。その結果「約束の地」からイスラエル人は追われ、ユダヤの王国は滅亡します。
これが、だいたい紀元前500年頃。中国では春秋戦国時代に当たります。
こうした王国の興亡を描いたのが「列王記」。そして、ここから預言者たちの物語へと続き、第2イザヤが、世間に相手にされない預言者の苦悩を「苦難の僕(しもべ)の歌」として書き残したことから、「キリエ・エレイソン=主よ、憐れみたまえ」という詩編が生まれ、話はイエスについての物語である「新約聖書」へと、つながって行きます。

★聖書とは何か?

このように様々な神話や史実の集合体が、最終的に一冊の歴史大河小説として編纂(へんさん)されたのが「旧約聖書」という物語なのだと思います。
ちなみに、旧約聖書の「旧約」とは「モーセが仲介者となって、人間が神と結んだ(古い)契約」を意味し、新約聖書の「新約」とは「イエスが仲介者となって、人間が神と結んだ新しい契約」を意味します。
ユダヤ教では旧約(モーセ五書=トーラ)だけを聖典と見なし、新約のことは認めていません。逆にキリスト教はメインの聖典が新約で、「イエスこそがメシア=救世主である」と考えます。
イスラム教の聖典はコーラン(クルアーン)であり、コーランは旧約聖書の神とほぼ同じ(微妙に違う)「アッラー」の啓示を受けたムハンマドさんが説いた言葉。
聖書(特に、旧約聖書)という書物が、なぜ古代から現代に至るまでミステリアスで怪しい輝きを放ち、信仰者のみならず一般読者の強い興味と関心を惹き続けて来たのか? そして、なぜ、聖書という書物の解釈を巡り宗教的対立と混乱が、はるか古(いにしえ)より現代に至るまで絶えないのか? 人々は果てしなく宗教戦争を続けるのか? それは、元を正して一言で言えば、

「創世記って、本当に神が自分で語った言葉なのか?」

という部分にあります。
 信仰者にとっては、聖書はたんに神についての言葉ではなく、「神の言葉」です。神が主人公であると同時に、その著者です。つまり、アブラハムの宗教を信じる者にとって、聖書とは「創造主・神が書いた本」なのです。
真偽はともかく、新約聖書は誰の残した言葉なのかは明記してあります。旧約聖書も、創世記以降は、誰についての、何についての記述なのかは一応、分かります。しかし、創世記だけは、人間の著者がいたとしても、誰が何を目的として残した言葉なのか、2千年以上の長きに渡る歴史の中で、誰も解読/解決することができない「永遠の謎」だったのです。

モーセやイエスやムハンマドをはじめとする、あらゆる聖者や預言者、そして、あらゆる聖職者と教会組織の存在を根源で基礎づけている「神」。では、その「神」とは、そもそも何者なのか?

でも、上記のように考えて行けば、旧約聖書(創世記)という書物の中に、謎や神秘は残りません。神は決して不可知の存在ではない。
こう考えてみて下さい。もし、日本人を絶対君主制の元に統括するのであれば、天皇を神とみなし、その天皇を「神の血族」として位置付けるのが、もっとも手っ取り早い。同様に、イスラエルの民をコントロールするためには、統治者であるアブラハムを「神に祝福された最初の預言者」として神格化する必要がある。
前にも書いたように、そもそも「唯一絶対神=ヤハウェ」の起源は、移民であるシュメール人=ユダヤ人が、先住民が信仰を捧げていた多神教に対抗するために生み出したキャラクターだったのだろうと思います。
「神」としての天皇の系譜が日本神話における天地開闢まで辿れるように、ユダヤの民にとっては、人類(世界)起源は「ヤハウェ(ユダヤの神)」でなければならない。そして、その創造主と契約を結ぶ、というストーリーを編み出すことによって、リーダーであるアブラハムの絶対的地位を確立した。
ポイントは、聖書がリアルタイムで書かれた記録(ルポ)ではない、ということです。為政者(記述者)が後から、いくらでも都合よく史実を脚色することができた。これは、日本の近代史における教科書の改変と同じ構図です。天皇を絶対神と位置付けるためならば、為政者が歴史を書き換えることなど造作もない。
聖書を「神が書いた本」と考えると不可解な点や謎が多く残りますが、時の為政者たちが、イスラエルの民(アブラハムが率いた民の末裔)を教科/コントロールするために書き連ねて行ったテキストと解釈すれば、「神」の存在にも言動にも不思議はありません。天皇は血肉を持った眼に見える存在ですが「創造主・ヤハウェ」は架空のキャラクターだから、原作者が正体をバラさなければ、著作が読み継がれている限り、時を超えて人々の頭と心の中で生き続ける。
言うなれば『聖書』とはトリックの明かされていないミステリー小説。この聖書に関する私の仮説(宗教的情報の解読)が神学的、歴史的に正しいか、否か、ということは問題ではありません。私が解いた、このトリックの種明かしに、あなたが納得できるかどうかの問題です。少なくとも、あなたが納得することができるなら、それ以上、「神」という人類史上最大のトリックについて頭を悩ませる必要はありません。

★後継者としての預言者たち

創世記における最初の預言者であるアブラハム。先にも書きました通り、彼の後継者(サブ・キャラクターとしての預言者)として登場する、モーセを崇めるのがユダヤ教、イエスを崇めるのがキリスト教、ムハンマドを崇めるのがイスラム教。
 この三つの宗教に共通しているのは、各々が崇拝するモーセ、イエス、ムハンマドが、みな「私は神から言葉を授かった」と主張していること。つまり自己申告で、自身の言葉が神の言葉である根拠は特にない、ということです。だから、成り立ちとしては、私が「神から啓示を受けた」と主張し、私の言葉をみなさんが信じて下されば、私にも四つ目のアブラハムの宗教を作る(神に祝福された四人目の預言者となる)ことは可能です。
 この中でイスラム教が特殊なのは、オリジンとなる「ムハンマドさん」が割と最近の方(6世紀前後)で、職業が商人/軍事指導者/政治家というリアルな存在であること。イスラム教は元々、ムハンマドさんが敵対勢力との軍事抗争(ジハード)を繰り返して勢力を拡大した宗教ですから、原理主義化(原点回帰)してしまうと、戦闘的になるのも半ば必然と言えます。でも、それはイスラム教のみが悪いわけではなく、アブラハムの宗教は根本的に、自分たちの考え方を相手に押し付け、勢力拡大を図る。(未開部族への布教も含めて)こうしたスタンスは、本来の仏教の姿には見られないものです。
 なぜなら仏教は、その起源において主従が「教える/教えられる」という関係ですが、アブラハムの宗教は主従が、ギブ&テイクの関係になっているからです。つまり「私たちは、あなたに信仰を捧げ、あなたの教えを守って生きるので、代わりに救済を与えて下さい」という構図です。
 このコンセプトは、聖書を作った、そもそものオリジンであるアブラハムさんが、民に忠誠を誓わせるためには当然の教えです。「おれ(=神)は、お前たちを救ってやるから、お前たちはおれを信じ、おれを崇め、おれに従順(盲目的)に従え」ということです。この構図は、どこの王と民の関係でも、どの教祖と信者の関係でも同じです。そして、かつての天皇と日本人の関係も含めて、神のためならば民は、命を捨てて闘います。

★現代社会における「パレスチナ問題」

現在のイスラエルは、日本のように諸々のプロセスを経て、流れの中で形成された国ではなく、ある時「さあ、作りましょう」「ドン!」という形で多民族の複合体として作られた人工国家です。
 イスラエルの建国は1948年。第二次世界大戦でナチス・ドイツによる大量虐殺を経験したユダヤ人は、ヨーロッパ各地に離散して暮らすのではなく、自分たちの国を持ちたいと考え、そもそもはユダヤの王国であったパレスチナに国家を設立しました。しかし、当然、そこには先に住んでいた人々(アラブ人)がいたわけで、国連がパレスチナを「ユダヤ人の国」と「元々住んでいたアラブ人の国」に分割。前者である「ユダヤ人の国」が「イスラエル」として建国されました。しかし、周辺のアラブ諸国は、この国連案を認めず、第一次中東戦争が勃発。これに勝利したイスラエルは、その後の戦争で支配権を拡大。第三次中東戦争では、アラブ諸国に対してイスラエルが先制攻撃を仕掛け、わずか6日間で勝利を収めました。
アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)共通の聖地であるパレスチナ内部の土地、エルサレム(カナン=シオン)は、国連が管理する土地と定められていましたが、イスラエルが全面占拠。自国の首都と宣言してしまいました。また、国連の分割案で「アラブ人の国」に指定されていたパレスチナの土地も、すべてイスラエルが占領しました。
 イスラエルの占領によって、そこに住んでいたアラブ人たちは難民となって故郷を追われます。以後、難民たちは、そもそも自分たちの土地であったパレスチナの民としての自覚を持つようになり、故郷を奪還するための闘争に立ち上がる。その指導者がアラファト議長でした。
 その後、長い抗争が続き、結局「ガザ地区」と呼ばれる場所にパレスチナ自治区が誕生。しかし、今度は、このパレスチナ自治区の中で、イスラエルとの和解を目指す穏健派「ファタハ」と、自爆テロ軍事組織を持つイスラム原理主義グループ「ハマス」が対立、内戦状態になります。
 「ハマス」はイスラエルの存在を認めず、武力闘争によるイスラム(アラブ人)国家の樹立を目指します。やがて、「ハマス」はガザ地区に独自の治安部隊を配置、実効支配します。
 このようにして、イスラエルと対立していたパレスチナ人は、自治区内部でさらに分裂してしまったわけです。
 欧米は「ハマス」を認めず、ガザ地区への支援をストップ、ガザ地区の住民は困窮の度合いを深めて行きます。
 一方でイスラエルは当然のことながら穏健派の「ファタハ」を支持、自国への自爆テロを繰り返す「ハマス」を攻撃対象としましたが、ガザ地区内には「ファタハ」と「ハマス」両者が暮らしていたため、あくまで、ガザ地区への攻撃は限定的でした。
 ところが、ガザ地区の実効支配が「ハマス」となれば、遠慮なく攻撃できます。これに対抗し「ハマス」がイスラエルへの自爆テロを繰り返す。この自爆テロによって、16歳のユダヤ人少女が死亡した事件がきっかけとなって、イスラエルは「ハマス」の自爆テロを防ぐために、このチャプター冒頭でご紹介した「分離壁」建設へとつながって行くわけです。
 以上は池上彰さんの著作『池上彰の「世界が変わる!」』を参考文献としていますが、事情を良く知らないと「イスラム原理主義グループ=狂った悪者集団」というイメージを持ってしまいます。
しかし、彼らの主張にも一理はあるし、彼らの立場になって考えれば、正当性もあります。ただ、何事に付けそうですが、目的と手段は往々にして転倒します。
「民族独立のためのアッラー(ジハード)」だったものが、いつの間にか「敵(イスラエルやアメリカ)への攻撃を正当化するためのアッラー(ジハード)」になってしまったわけです。
 これまでに渡って考察して来たように、イスラエルの人々が、元々は自分たちの王国だったと主張するパレスチナも、さらに遡(さかのぼ)って考えれば、元々はシュメール人(ユダヤ人)が先住民を追い出し、不法占拠した土地。
 元々は、どこが誰の土地か? という議論に永遠に結論は出ません。
 そして、パレスチナ人にはパレスチナ人の宗教(イスラム教)があるし、イスラエル人にはイスラエル人の宗教(ユダヤ教)があります。つまり、こうした問題を根本から解決するためには、互いの宗教の起源である旧約聖書(創世記)」まで立ち返り、「神」というシステム自体を解体してゼロに戻し、対立の原因そのものを消してしまうしか方法はないのです。



一言で言えば「神」とは、決して廃れることのない、永遠不滅の人気を誇る、物語の中のキャラクター。
神を巡って、人々が信仰に悩み、対立し、争うことは「ハリー・ポッター」の解釈を巡って宗派を分け、殺し合うことと同じです。そんなのバカバカしいとは思いませんか?
 「ハリー・ポッター」が現実の世界に出て来て、魔法を使って人間を救ってくれることは絶対にありません。なぜなら、神は十字架に掛けられたイエス・キリストさえ見捨てたからです。物語の中のキャラクターに依存し、愛や祈りを捧げることはもう止めて、神のいない世界で平和を作る方法を考えるべきではないでしょうか。
 ユダヤ教徒もイスラム教徒もキリスト教徒も、そしてカトリックもプロテスタントも、みんな「神」が消えれば、仲直りできるのだから。

*『仏の教え』

 キリスト教というのは、そもそも聖書という「本」に立脚している宗教ですから、どう解釈するかどうかは別として、誰でもそこに書いてある文章を読むことは出来ます。でも、仏教は、そもそものはじまりが釈迦という個人で、彼自身は「本」を残すことを望まなかったにも関わらず、その後、いろいろな人が釈迦の言葉を勝手な解釈で書き遺したがゆえに、ものすごくややこしい体系が出来上がってしまい、理解するのが大変に難しい思想になってしまった。
 仏教は経典だけで8万4千あると言われていますが、そもそもはブッダ入滅から数百年間、その教えは口承のみで伝えられ、書き記されることはなかった。
なぜ、オリジンである釈迦自身が、自分の考えを文字として残すことを嫌ったかというと、彼が「見た」ものは本質的には言語化することが不可能だから。要するに、言葉によって伝えることが出来ない。それを無理に「本」として残し、誤った解釈が広がることを恐れたのだと思います。そして、語弊を恐れずに言えば、その釈迦が「見た」ものを別の切り口から理論化したのが『THE ANSWER』であり、本書『ハートメイカー』です。釈迦が行ったことも、私が行っていることも「頭の中にある情報の解体」という意味では同じだからです。ただ、釈迦はそれを修行で行い、私は言葉によって言葉を解体している。
 どの角度から掘り進んだとしても、人間が極限で辿り着く答え(真理)は同じなのです。真理とは無であり、無とは言葉の消えた世界です。ただ、釈迦の時代には素粒子物理学もポスト構造主義もありませんでしたが、それから数千年後の現代社会は、あまりにも多くの情報が氾濫(はんらん)しているので、思考をゼロに戻すことが難しい。それだけの違いだと思っています。
 釈迦の出自は王族で、何不自由ない暮らしをしていた。でも、ある時、市井に出て、生きることに悩み苦しむ人々を目の当たりにして、人間の悩みや苦しみは、一体どこから来るのだろう? と考えに考え、とことん考え続け、ある時「ツコーン」と突き抜け悟りを開いた。では、その時悟ったこととは何なのか?
釈迦は「煩悩(ぼんのう)があれば苦があり、煩悩がなければ苦がない、煩悩が生ずれば苦が生じ、煩悩が滅すれば苦が滅す」という「縁起の法」=因果論を説いたとされています。
仏教では人間の苦しみの根源は、無数(俗に百八)の煩悩(クレーシャ=汚すもの)を抱えて生きていることにあると考え、この煩悩を把握・克服することによって解脱・涅槃(ねはん)への道が開けるとされています。
「解脱」「涅槃」という言葉を聞くと、すさまじく大仰で高次元の境地をイメージしてしまいますが、お釈迦様が本当に伝えたかったのは、ごくシンプルなことだと思うのです。
それは、つまりこういうことです。
人間の抱える悩みで動物は悩まない。では、人間と動物の違いは何かと言えば「言葉を持っているか、否か」という違いだけです。動物も飢えます。動物も死にます。でも、動物は飢えることや死ぬことで悩んだり、絶望したりしない。そんなことは、いちいち考えない(考えることができない)。生まれ、子どもを作り、死んでいく。それだけの存在。だから言葉も意図も持たず、「我」のない、ただそれだけの自然存在=「空」としてあれば、人間も悩んだり、苦しんだりしない。
それがすなわち、仏の教えの根幹にある思想なのだと思います。
釈迦は「悟る」ことを目的として修行をはじめたわけではないのです。そもそもは、困っている人、苦しんでいる人を何とか助けてあげたい、救いたい、という人間的な優しさが最初のモチベーションとしてあったのだと思います。じゃあ、どうして人間は苦しんでしまうのだろう? と哲学的に考察した結果「飢えたくない」「死にたくない」「愛する人と離れたくない」「苦しみたくない」と考えてしまうから苦しくなるのだ! と気付いた。だから「~したくない」「~したい」という意図を持たなければ人は苦しまないのではないかと考え、だったら、その意思を持つ主体である自我そのものを消して、人間が「我の無い心」「空っぽの実体」となれば原因そのものが消滅し、結果として欲も消滅するから、苦しみから抜け出すことが出来る、と考えた。その因果や自我から解放された状態を「悟り」「解脱」と呼んだわけです。
仏教には様々な難しい概念がありますが、すべて後世の仏教徒が言葉にならないものを無理やり理論化した体系であって、お釈迦様自身がそんなにややこしいことを考えていたわけではないのです。
一般的な科学者タイプの人間は「困っている」→「どうしたら解決出来るか?」と、上向きのベクトルで発展的に考えます。でもアインシュタインや釈迦等の哲学者タイプの人間は「困っている」→「なぜ、どうしてそうなるのだろう?」と下向きのベクトルで、そもそもの原因を考える。だから、それまでの視点を180度反転させるような画期的な発見に至るわけですが、発端となる思考のベクトルが逆なので、一般的なものの見方、考え方をする人には直観的にその思想を把握することが難しい。
 お釈迦様の説いていることは決して超人的な思想ではなく、発想の原理が分かれば、しごくまっとうで当たり前の教えです。
釈迦は「極論に走らずに中道を歩め」と人々に教え諭したとも伝えられています。
例えば仏教には「不殺生戒(ふせっしょうかい)」という戒律(ルール)があります。「生き物を殺してはいけない」という教えです。こうした言葉を額面通りに極端な形で受け止めると「菜食主義を通したとしても、植物だって同じ生命ではないのか?」とか「自分を刺すスズメバチすら殺してはいけないのか?」とか「襲ってくる暴漢に対しても、武力で抵抗してはいけないのか?」と悩むことになります。そんな時も、動物をお手本にすれば良いのです。動物は無益な殺生はしません。でも、自分が生きて行くために必要なものは殺して食べるし、身を守るためなら牙をむいて闘います。動物はそうしたジャッジをすることにいちいち悩みません。動物のように不自然な意図を持たずに、人間もナチュラルな存在としてあれば良いのです。
性欲、食欲、睡眠欲など生物として持っていて当たり前の欲は「煩悩(ぼんのう)」ではありません。「煩悩」とは無駄な欲のことです。
心の平穏を手に入れ、人生の苦しみから抜け出すために、必ずしも出家して修行しなければ無駄な欲が消えないわけではないと思います。
 私も10年前『THE ANSWER』を書いていたころは、自我全開で承認欲求がとても強かった。「オレの才能を世間に認めて欲しい! 誰かに『すごい』って言われたい! ノーベル賞を100個くれ!」と死ぬほど願い、もがき苦しんでいました。だから、私は座禅を組んだことは一度もないけれど、欲が消えれば楽になる感じは、とてもよく分かります。

 断食も女断ちも禁煙も、やろうと思えば誰でも出来る。意思の力では断ち切ることが不可能な、人間が解脱出来ない一番強いカルマ=業は「おれの話を聞いてくれ」「おれの価値を認めてくれ」「おれが困っている」「おれが大変だ」「伝えたい」「分かってくれない」「おれが悟れない」「おれが悟りたい」という自己愛=我執だから。

妄執(もうしゅう)を抜け出すと言う意味での「悟り」「解脱」というものは、たぶん、自分でもがいてもがいて現実と闘って、何度も他人に頭を下げて、恥をかいて嘲笑されて、そういうリアルな葛藤を極限で突き抜けた向こう側で手に入るものだから。
 釈迦は「只管打坐(しかんたざ)」、ただ座禅を組むことによってのみ、自己の内面に眼を向け、瞑想することによってのみ悟ったわけではありません。菩提樹(ぼだいじゅ)の下に至るまでの実社会における七転八倒、試行錯誤があったからこそ最終的に無心/無我の境地を得て、世界の真理を見極めることが出来た。

いつもわたしは言っているね。この世のあらゆる生きものはみんな深いきずなでむすばれているのだと……。人間だけでなく、犬も馬も牛もトラも魚も、そして虫も、それから草も木も……。いのちのみなもとはつながっているのだ。みんな兄弟で平等だ。おぼえておきなさい。
手塚治虫・作『ブッダ』(潮出版社)

あなたが海で死んで、その死体を魚が食べ、その魚を漁師が食べれば、あなたの身体(遺伝子)は漁師の中に入る。その漁師が野糞して、その糞をミミズが食べ、そのミミズを食べたネズミを食べたキツネを狩人が食べれば、漁師は狩人の身体の一部になる。そして、その狩人が土の上で死ねば、狩人は地球の一部となり、その地球がやがて粉々に砕けて無くなれば、あなたは宇宙の一部になる。すべてはつながり連環=「輪廻(りんね)」しているのです。ともに互いを支え合いながら、生まれ変わりながら万物は流転しています。
釈迦が最後に辿り着いた「涅槃(ねはん)」とは恐らく、不自然な意図を排し、曇りのない眼で人間を含むものとしての自然の営みを見つめ、理解し、受け入れる心。そして、仏の教えとは、そうしたピュアで、白く、丸い心を持つためのテクニック・ガイドなのだと思います。

6:経済的な問題の解決マニュアル


*『仕事とお金、企業の栄枯盛衰』

 私は本質的に「作家」でも「哲学者」でもなく、『THE ANSWER』や『ハートメイカー』と同種の作業をしている人間がこの世界には一人もいない。仲間もライバルも目指すべき人もいないから、私の仕事を理解してくれる人はほとんどいません。でも、他者に多くを望んでいるわけではないのです。研究資金を援助して欲しいわけでもないし、肩を揉んで欲しいわけでもない。ただ、誰かに、ちょっとでいいから気持ちの上で寄り添って欲しいだけなのです。そんな時、ふと思いました。「ああ、社会福祉って、こういうことなんだ」と。
 つまり、助けてくれる人がいない人を救うのが福祉の本質で、それを一人でやるには限界があるから、そういう「優しさ」を社会システムとして作り上げて、人々を救うのが社会福祉なのだと思ったのです。でも、社会福祉に携わる人々は表現の技術は持っていない。だから、そういう仕事をしている人たちに代わって、人々の思いを表現として変換して、広く、世間に告げ、人と人を、社会と社会を繋ぐのが広告。そう考えると、仕事の本質は、お金を稼ぐことが目的ではなく、社会における、それぞれの役割分担なのだと思いました。家庭の中で、ゴミ出しや布団干し、炊事洗濯、風呂トイレ掃除、育児の役割分担があるように。そして、お父さんがお金を稼いで来て、そのお金で主婦が家族の面倒を看るように、お金を生み出す職業の人たちが稼いだお金で、福祉に携わる職業の人たちが弱者の面倒を看る。
 「仕事は役割分担」という考え方は、分刻み、1円単位で仕事をしていらっしゃる方にはピンと来ないかも知れませんが、そこでふと、心を落ち着け、気持ちをフラットにして、頭の中だけはるか古代日本に思いを馳(は)せてみて下さい。
 日本で最古の流通貨幣は、708年(和銅元年)に鋳造・発行された銭貨・和同開珎(わどうかいちん)であると言われています。つまり、これ以前、日本では米や布の物々交換でマーケットは回っていた。物々交換のマーケットというのは等価交換の経済ではありません。貨幣経済に慣れきってしまっている現代人には物々交換の社会がうまくイメージ出来ないと思いますが、例えば、正看護婦の資格を持っていた私の祖母(享年98歳)は、太平洋戦争中、疎開先で山村のけが人や急病人の手当てに奔走し、一切の謝礼を受け取らなかったために、朝、雨戸を開けると、獲れたての農作物が置かれており、戦時下でも食べるものに困ることがなかったと話していました。祖母は損得勘定で動く人では決してないから、お礼を期待して人々を助けていたわけではないのは確かですが、そのサービスと物の交換があったからこそ、現代とは比べ物にならいほど厳しい時代を生き延びることが出来た。これは等価交換ではなく、そして、これこそが仕事の本来の姿だと思うのです。
 かつて、私たちは自分に出来ることを一生懸命やって、互いに支え合いながら生きて来た。そこに等価交換の概念はなく、どっちが多いとかどっちが少ないとか、誰が得だとか誰が損だとか、きっと考えてはいなかった。仕事とは本来、そういうものだった。ある人は作物を育て、ある人は灌漑(かんがい)を作り、ある人は狐を狩って、ある人は木を切り倒していたかも知れない。そんな人たちの子どもをまとめて引き受け、面倒を看ていた肝っ玉母さんもきっといたでしょう。そこには金なんてなくて、それぞれがそれぞれの役割分担を引き受け、支え、支えられながら生きていた。つまり、その世界では金を稼ぐために仕事をしていたわけではないのです。
 でも、私たちは違います。私たちがなぜ仕事をするかというと、多くの場合、金を稼ぐためです。では、なぜ金を稼ぐかというと、金がないと生きていけないからです。では、なぜ金がないと生きていけないかというと、現代社会は「等価交換」という仮想概念に上に構築されているからです。
 私がいくらがんばって原稿を書いても、その原稿が金にならなければ、現代社会においては、私のやっていることは仕事とは見なされません。でも、もし今、私が属しているのが等価交換の社会でなければ、私の書いた文章で「魂が救われました。ありがとう」と言ってくれる読者が一人でもいれば、私のやっていることは立派な仕事です。
 元来、私たちは、金を稼ぐことを「仕事」と呼んで来たわけではありません。仕事を意味する「トラバーユ」「アルバイト」「レイバー」といった欧米圏の言葉の、そもそもの語源は「拷問の道具、苦役、苦痛、奴隷、下僕、下男」を意味するラテン語やゲルマン語にあります。でも、日本語の「仕事」は「道徳、教養を身に付け、人の道を修め、人のために動くこと」を意味していたそうです。かつては。
 経済状況の厳しい現代にあって、それでもなお最後に生き残るのは、金儲けが上手い人ではなく、自分のミッションを自覚し、見失わなかった人だと思います。例え金儲け競争に負けたとしても、そういう人のプライドは傷付かない。逆に、東大に合格することだけを目標に勉強して来た学生は、東大に入学した途端、人生のミッションを見失う。
 私は若い頃、当時、本国でトップ・クラスの売り上げを誇っていた外資系の広告代理店で3年ほどサラリーマンをやっておりましたが、自分の会社が、そもそも何を目的として作られた会社組織なのか、自覚して働いているサラリーマンの方は、ほとんどいないのではないかと思います。
経営のことなど何も知りませんが、傍から見ていると、企業の栄枯盛衰は必ず同じパターンを辿ります。

熱い思いを持った創業者が熱い商品を作る→その商品がヒットする→組織が拡大し、社員が増える→その社員を養うために、もしくは組織の維持/拡大のために、さらなる「売れる」商品を作ろうとする→創業時点のミッションが忘れ去られ、会社のオリジナリティーが失われる→ファンが離れ、組織が衰退する。

 こうした本末転倒を未然に防ぐために、創業者は「会社理念=ミッション・ステートメント」を掲げるわけだけれど、結局、そうした初期理念は、額に入れて、壁に飾られるだけのお題目になり、どんどん会社は本道を逸脱し、どこにでもある企業に成り下がる。
 例えば、このパターンは、創業初期に私が、その「ミッション・ステートメント」の有り方に熱く感動したスターバックスにも当てはまります。

 スターバックスにも同じことが言える。ハワード・シュルツは、優れたブランドを作る目的で会社を起こしたのではない、と述べている。結果的にそうなっただけなのだ。むしろ、シュルツは優れた商品を作り、優れたカフェを作り、優れた人材を雇い、株主に利益を還元することをめざしてきた。そして、この四点がスターバックス・ブランドの基本理念になった。
スコット・ベドベリ著『なぜみんなスターバックスに行きたがるのか?』(講談社)

そもそもスターバックスは、清涼飲料にマーケットを取って代わられた「コーヒー」の本当の素晴らしさを伝えたい、という熱い思い、ただその一念からはじまった企業です。そのスターバックスが今、炭酸飲料やエナジードリンク市場を取り込むための商品展開をはじめています。また『ドラゴンボール』や『はじめの一歩』等の漫画は、人気が出たがゆえに出版社の意向でマンネリのまま連載を長期化させられてしまい、コアなファンが離れる。こうした本末転倒は病院や大学や政党でも起こるし、売れっ子作家にもアーティストにも起こります。
当たり前ですが、お金というのは、あくまで人が作ったものであり、自然存在ではなく人工物。経済は本質的にはインターネットや上下水道と同じインフラ(インフラストラクチャー=社会基盤)です。
社会というのは、本質的にはインフラを整備することをミッションとして発展して来たわけだけれども、ではなぜインフラを整備するのか、経済を発展させるかと言えば「安心、安全に」暮らすためです。でも、今、社会は、その目的と手段が転倒して、金を生み出すために金を稼ぐ経済の奴隷になってしまった。人生を楽しむためにゲームを買ったのに、そのゲームにハマり過ぎて人生破滅したら元も子もありません。
お金のそもそもの起源は、物々交換を便利にするために作られた道具(ツール)だったわけです。つまり、お金は目的ではなく、あくまで手段だった。
もし、本気で世界の安定と平和を望むなら、経済の目的と手段を転倒させていけない。経済の本来のミッションを見失ってはいけない。目的と手段が転倒したものは、確実に本道を外れ、いずれ自滅する。世界の根本でパラダイム・シフト(価値観の大変動)が起こり、人間の欲望の有り方が変化し、例えば「シンプル・イズ・ザ・ベスト」「無理に長生きするのではなく、どうやったら上手く死ねるか」とか「禅的清貧=善」「ピダハン・ライフ」のようなヴィジョンが多くの人のコンセンサスになれば、経済成長のみを信条として来た資本主義経済は針路を見失う。
今の社会にあっては、生きて行くために、お金はもちろん必要です。でも人間は、心の欠落を埋めるために金や物を必要とするのであって、心が満たされていれば金や物なんて、そんなに必要なくなる。そして、誰もが内心で気付いているように、金や物をいくら増やしても心の欠落は埋まらない。
1億円の宝くじに当たったら使い道に迷うけれども、総資産が100兆円あったら、逆に、欲しい物なんて無くなってしまう。だから何事も、ほどほどで良いのです。お金をむやみやたらと増やすことよりも、自分にとって、そして、社会にとって、どの辺りが、ちょうど良いほどほどなのかを見極めることの方が、余程大事。
 現代人は、スマホ片手に数と時間に追われ、毎日、とても忙しい。でも、自分の心と正面からきちんと向き合うことをしないと、人間は幸せになれない。満たされない。
時には、ふっと立ち止まって、自分が何のためにその仕事をしているのか、経済の本質って何なのか、考えてみることも必要なのではないでしょうか?

*『経済の辿り着く場所』

 そうは言っても「金は金だ。おれは金が大好きだ」という方も多々、いらっしゃるでしょう。そういう方は間違いなく株をやっていて、株価の上下が100%予測出来たら、どんなに素晴らしいだろうと夢見ていらっしゃるかも知れません。でも、原理的には未来における世界経済の推移を予測することは可能です。こんな思考実験をしてみて下さい。

人間が、未来における株価を100%正確に予測することが可能になったら、世界はどうなると思いますか?

 私は3年前に『火の鳥0528』という作品を書きました。以下が、その時付けたキャッチ・コピーです。

「通称『火の鳥』。その薬が人類のすべてを変える/もし、不老不死の薬が誰でも無料で手に入るとしたら、あなたは飲みますか?」

すべての病気を治癒し、人間の老化を食い止める「不老不死の薬」が完成したら、そして、人間に「死なない」という生き方を選ぶことが可能になったら、人間の価値観や人生観はどう変化し、世界はどう推移するのか、という設定で執筆した近未来SF小説です。
この作品自体は出版されることなく、陽の目を見ないままにボツ原稿の山に埋もれてしまったのですが、クライマックスで「人類の経済が辿り着く場所」を描いているので、手前味噌で恐縮なのですが、一部引用してみます。長い引用になりますので、短編小説を読む気分で楽しんで下さい。そして、この引用を読み終えた時、前述の思考実験の答えは自ずと出ていることと思います。



 その年の秋、製薬中堅であるドイツの「バイエル・ゲーリング・ファーマ」が死んだ。同じく中堅のアメリカ「カムジェン」、デンマーク「ボノ・ノルディスク」、イスラエルの「ニヴァ製薬産業」が後を追い、世界15位の「武光薬品工業」と20位の「第二三共」も倒れた。「カイザー」をはじめとする世界トップメーカーも、もう余命いくばくもない状態に追い込まれていた。この事態を受け、東京で30カ国緊急蔵相会議が開かれた。会議の様子はネットでリアルタイムに中継され、「ノーム」上で、常時、世界中から意見が寄せられ、議論に取り込まれた。
 「火の鳥」がある以上、製薬業は淘汰されて然るべき、という論調が全体的に強く、76時間、ぶっ続けの議論を重ねた末、企業としての再生の見込みが皆無であることから、各国政府は、製薬メーカーの救済を断念すると発表した。

「はい、リエです」
 リエ・マコール・トガクシは舌打ちしてから電話に出た。相手は、今日、何度目になるか分からないほど繰り返し聞かされた同じ話をまくしたてた。
「はい……はい……はい……はい」
 そして、リエは、何度目になるか分からない同じ説明を繰り返した。
「もちろん、スイスもリヒテンシュタインも、ダメです。……はい……はい……大丈夫です。今は、日本の地銀が一番安全です。……はい。この件に関しては、政府は黙認します。……はい……大丈夫です。念のために、弁護士と税理士が三重のフィルタリングをかけています。……はい……はい。ご安心ください。では、失礼いたします」
 ファック!
 リエは、切れた携帯電話をソファに向けて叩き付けた。携帯は、ソファのクッションで激しく跳ね、音を立ててフローリングの床に落ちた。
 まったく、どいつもこいつも、100%自分のことしか考えていない。これが、アメリカだ、とリエは思った。床の上の携帯が、再び鳴り出した。リエは「ファック」と、もう一度呟き、週に一度通うマーシャルアーツ・スクールで身に付けたローキックをソファに叩き込んだ。それから、ゆっくりと背中をかがめて、携帯を握り、可能な限り明るい声で電話に出た。
「はい、リエです」

「カイザー・インコーポレイテッド」CEO(最高経営責任者)、リエ・マコール・トガクシは、全世界10万人の従業員に向けて、ネット中継で呼びかけた。
「みなさん、かつて、戦場写真家であるロバート・キャパは、『私の夢は、永遠の失業である』と語りました。長い歴史を誇る、我が社が幕を閉じることは、個人的にも、非常に寂しく悲しいことであり、また、社を支えてくださった皆さんにも、計り知れぬご迷惑をおかけすることを、心からお詫びしなければなりません。しかし、我が社がここに解散するということは、これまで我が社が掲げてきた『何よりも健康な世界の実現へ向けて』というミッションが完了したことを意味します。火の鳥がもたらした世界の中で、キャパの夢も実現しつつあり、そして、また我が社の夢も実現しつつあります。そのことを共に喜んでほしいとは言いません。しかし、皆さんには、『カイザー』という場所で働いてきたことを誇りに思ってほしい。私たちは、多くの、本当に多くの人を救ってきました。その役目を、ここに終えることを、わたしは、喜びと悲しみの入り混じった思いで受け止めています。カイザーの経営陣は、私財を投げ打ってでも、一人でも多くの従業員の皆さんを救う覚悟でいます。皆さんが、この試練のときを乗り切ってくださることを、心よりお祈りしております。これまで、本当に、ありがとうございました」

 10月10日、かつて売上高5兆円を誇った世界最大の製薬企業、「カイザー・インコーポレイテッド」は、連邦破産法第11章の適用を連邦裁判所に申請した。
翌、10月11日、世界の株式市場は、洪水のように全面的な「売り」ではじまった。
製薬会社は、その規模を問わず、軒並み連鎖的に破綻、影響は医療機器メーカーに及び、続いて製薬事業と深い関りを持つ食品メーカーにも伝播していった。また、それまで「火の鳥」の効果を計りかねていた人々の間で、生命保険の解約が相次ぎ、生保会社は資金を手当てするために、保有する株式を売却せざるをえなくなった。
人々は、「火の鳥」がもたらした世界の中で、何が必要な産業で、何が無駄な産業なのか判断することができずにいた。そして、何が「買い」で、何が「売り」かという基準も、また持たなかった。市場は、極限まで老朽化したダムのように、カオスへと向けて、一気に決壊した。
 株価の暴落は医療関連以外の銘柄にもランダムに広がり、10月11日の発端から3週間で、世界の株式市場の時価総額は10分の1に縮小した。銀行やインベストメントバンクなどの大手金融機関の一角が倒産、国際金融市場は、さらに混迷の様相を呈した。大企業は株式市場から資金調達を行うことが困難となり、連鎖倒産が相次ぐ一方で、大手メーカーがかつてないリストラを断行、雇用不安が広がっていった。「火の鳥」により、世界的に労働者人口は激増、急激に減少した求人を、莫大な数の求職者たちが取り合うことになる事態となった。その危機は、規模とスピードにおいて、かつてのリーマン・ショックの比ではなかった。
「火の鳥エフェクトで、世界は1929年に逆戻りする」
あらゆるメディアが、世界恐慌の恐怖をあおった。
 ある家庭では、電気、ガス、水道が止められ、保護施設にすら入ることができず、一家4人が路頭に迷うことになった。また、世界の一部地域では、餓死者が出はじめた。人々は、資本家、労働者の区別なく、ただ、なす術もなく、巨大な滝に向かって押し流されるボートのように、その渦の中で翻弄されていた。
 一世紀近く前に流行した「名もなき歌」が、まるで時代の徒花のように、アレンジを加えられ、ストリートで再びよく聴かれるようになった。

景気は低迷 街は沈没
俺たちは破産 あとは死ぬだけ
食べるものもない 酒だって飲めない
でも偉い人は俺たちに笑えと言う
元気を出せ 市民たち
一文無しでも
幸せが再び訪れる 笑え愚か者たち
景気は上昇 腹が痛いくらい笑え
食料配給も終わり 笑え愚か者たち
明るく笑おう 楽観論者は言う
バカは縛り首だ
笑え愚か者たち……

 その年の12月は、「ブラック・クリスマス」と呼ばれ、世界は暗澹たる空気に包まれたまま、一年を終えようとしていた。

(中略)

 グローバリゼーションが高度に進み、ネットが極限まで普及、発達して情報が瞬時に共有される世界にあっては、世界の崩壊と再編成も秒速のスピードで進行し、「革命の季節」と呼ばれた、その世界的金融危機は急速に収束した。復興の直接のきっかけを作り、世界を救ったのは、「シュレック」という新型AI(人工知能)だった。
 1940年代、ベル研究所のクラウド・シャノンが、チェスの可能な駒の動きの総数を算定してはじき出した答え、10の120乗という数は、ビッグバン以来今日までのマイクロ秒時間や、観測可能な宇宙の中の素粒子の数より多かった。当時の研究者たちには、こうした駒の動きをすべて確かめることのできるコンピュータなど想像外だった。しかし、IBMのチェス専用スーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」は、ついに、1997年、世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフの頭脳を打ち破った。
 経済は本質的に予測不能といわれる。しかし、その予測不可能性は、量子力学のそれではなく、複雑系のそれである。つまり、チェスと同じように、「ファクターとプロセスが複雑過ぎて予測不能」の意味であり、因果律自体は存在している。そして、かつて不可能と言われた予測を「ディープ・ブルー」が可能にしたように、「シュレック」もまた、「神の見えざる手」の動きを、10分後まで予測可能にした。
 「シュレック」は、もともと、人工生命の生みの親であるクリス・ラングトンの弟子たちによって、遊び半分のゲームとして、サンタフェ研究所で開発された。その後、長い月日を経て、リーマン・ショックを契機に、FRB(連邦準備制度)が、公的に開発資金を投入、情報信用度の高度なアセスメント・システムを開発したグーグルと手を組み、実用化までは秒読みの段階にあった。
 「シュレック」と「ディープ・ブルー」の決定的な違いは、「ディープ・ブルー」が、与えられた計算を、ただひたすらこなしていくだけのトップダウン・システムだったことに対し、「シュレック」は、ネット上の情報を吸い上げて、独自に解析、思考、結論を出す、というボトムアップ・システムだったことにある。
 5月28日、「革命の季節」を収束させるために、IMF(国際通貨基金)の要請を受けたFRBは、それまでサンタフェの砂漠に封印してきた「シュレック」を、広大なネットの世界に放流した。「シュレック」は特許のないオープンソースとして使われたため、システムの透明性から、特定の個人、企業、地域、国家を優遇しない客観的判断が行われるツールとして、すぐに認知された。
 「シュレック」は、ある種のアービトラージ(鞘取り)として機能したため、「革命の季節」で売られ過ぎた株の大規模な買い戻しが発生、揺れ戻しが起きて、市場は「シュレック」投入から、僅か2週間ほどで正気を取り戻した。しかし「シュレック」には副作用もあった。「シュレック」により売られ過ぎた株が瞬時に察知されて、買い戻しが入るようになり、結果、世の中に売られ過ぎた株が存在しないという状況が生まれた。
 金融市場というものは、この株は安いと思って買う人間と、この株は高いと思って売る人間が存在することによって成立している。しかし、「シュレック」の出現により、相場が適正値から動かなくなり、株式市場、債権市場、通貨市場、「経済」という世界の血液が動脈硬化を起こしつつあった。
「シュレック」の影響で、金融市場そのものが世界的に意味を失い、通貨や金利が各国別に複数存在する理由もなくなった。半ば必然の流れとして、IMFは世界の通貨を「アース」に統一、結果、突出して富んだ国もなく、突出して貧しい国もなくなり、世界全体の生活水準は急激に均一化された。同時に、また、世界経済は、ただ老いていった。
 「革命の季節」を経て、世界は禅的で静かになった。一言で言えば、それは小欲知足の社会だった。
 「小さな欲で、足るを知る」。
 人々は、物質的にも精神的にも多くを望まなくなった。物をあまり買わなくなり、あるものを食べた。大きな夢や欲を持つことなく、情報を追いかけることを止め、最先端の科学技術にも、あまり興味を示さなくなった。ネットやテレビ離れが進み、画面を見ることを止めた人々は、本を読むようになった。そして、家族と遊び、友と語らった。同時に、世界から活力というものが失われていった。「老人病」と呼ばれる症状が現れ、ほんの少しだけを食べ、あとは、ただ、ぼーっと何もせずに無為に過ごす若者が増えた。「だって、疲れるじゃん」というのが、彼らの口癖だった。
(『火の鳥0528』 引用以上)



他の学問分野同様、現在、経済学もまた無数の研究分野に細分化されています。例えば2007年にノーベル経済学賞を受賞したレオニード・ハーヴィッツ/エリック・マスキン/ロジャー・マイヤーソンの受賞理由は「メカニズムデザインの理論の基礎を確立した功績を称えて」です。では、その「メカニズムデザイン」とは何か、ウィキペディアから引用すると、

メカニズムデザイン (英: mechanism design) とは経済学の一分野である。資源配分や公共的意思決定などの領域で実現したい目標が関数の形で与えられたとき、その目標が自律的/分権的に実現できるようなルール(「メカニズム」とか「ゲームフォーム」とも呼ばれる)を設計することを目指している。言い換えれば、与えられた関数が要求する目標を、各プレイヤーの誘因を損なうことなく実現できるようなゲームを設計することをメカニズムデザインでは目指している。メカニズムデザインは経済学のなかでも特に社会選択理論および非協力ゲーム理論、さらには契約理論やマーケットデザインと密接な関係を持つ。

こうした果てしなく細分化された枝葉の大元、「経済学」という大樹の根は『国富論』を著わした「経済学の父」アダム・スミス(1723-1790)です。でも、そもそも「エコノミクス(経済学)」の語源はギリシア語の「オイコノミクス(共同体のあり方)」。
つまり、データを駆使するための難解な研究はあくまで「共同体のあり方」を模索するための手段に過ぎないにも関わらず、経済学も本末転倒を起こしてしまい、現在、その最先端では手段を研究するための研究が行われているのです。
「共同体のあり方」を研究するのが経済学の本来のミッションならば、経済学の答えは恐らく一つしかありません。
引用文の中で「シュレック」が放流された後の経済状況を動脈硬化に例えました。でも今は別の感じ方をしています。経済の最終形態、経済の完成形、経済の辿り着く先は、きっと「高熱を取り除かれ平熱にもどった身体。静かに、しかし、しっかりと働く身体」。
現代資本主義経済の、さらに先の具体的な青写真を描けるだけの能力は私にはありませんが、経済の本質とは「何かと何かを交換すること」です。だから、必ずしも、この世界にお金が必要なわけではないのです。現代社会は数依存社会です。数に頼らないと何も判断できない。でも、何でもかんでも価値を数値化/客観化すれば良いというものではないと思うのです。例えば、私が疲れた誰かをマッサージしてあげて、そのお礼に、その誰かが、お腹を空かせた私にお米をくれる。そんな性善説に則った、穏やかで心安らぐ「共同体のあり方」に世界経済の最終形態が着地してくれたらいいな、と夢見ています。
 金(数)のために人を殺し、人を突き落とし、足を引っ張り合う。そんな世界が「正しい」と、99%の人は考えていないと思うから。

7:常識を超えた問題の解決マニュアル


*『世界平和の作り方』

 人間は、あらゆることで議論します。ゴミの分別方法、子どもの教育方針、企画会議から株主総会、科学的、哲学的、宗教的論争から、国会、サミット、国連総会に至るまで、とにかく人間は、ありとあらゆること、あらゆる場所で日々議論を闘わせています。
 損得、メリット/デメリットや利権で動いている人ばかりではなく、自分の意見が「良い」「正しい」と思って主張している方もたくさんいらっしゃるでしょう。とは言え「議論に勝つ」「ディベートに勝つ」と言えば聞こえはいいですが、極小から極大まで議論の本質は「自分の意見を相手に押し付けること」にあります。
 例えば、日本を核武装したい人たちと日本を非武装にしたい人たちが議論を闘わせたとします。ある時は、どちらかの声が大きく、主流派になり意見が通ったとしても、4年後にはまた揺り戻しが起き、世論の流れが変わるかも知れない。そして、また4年後には政権が交代し……と、結局、社会はあっちに行ったり、こっちに行ったりするだけで問題の本質的な解決には決して至りません。なぜか? みんな「どちらが正しいか」ばかりを議論して、誰も「なぜ、意見が対立してしまうのか?」とは考えようとしないからです。
 私が本書の弟分である『THE ANSWER』を執筆することになった直接のきっかけは、老人ホームの現場で日々巻き起こる、職員同士の議論、口論、対立、喧嘩をどうすれば根本的に解決出来るのか? と考えはじめたことにあります。
 私は職場で役職のない、中立の立場に居る単なる聞き役の介護員でしたので、いろいろな職員が、私のところに来て各自の主義主張を訴えて行きました。今、考えれば、それは愚痴として聞き流すべきことだったのかも知れませんが、持って生まれた哲学的衝動が発動し、なぜ意見が対立してしまうのか? どうすれば組織として、その場しのぎではない、本質的な解決に至るのか? 考えに考え、考え続け、ある時「スコーン」と、その答えに辿り着いてしまったのです。その答えが「言語発生起源」であり「QAS」です。
 意見がなぜ対立するのかと言えば、言葉があるからです。人間の思考は言葉によって行われ、言葉によって個々の意見が形作られ、その言葉を使って人間は議論を闘わせる。だったら言葉がなくなればいいとは思いません。社会を形成する以上、人間は言葉なしでは生きていけない。でも、この世界に言葉が生まれた時点では、この世界にはたった一つの単語(概念)しかなかったのです。このたった一つの単語がさまざまに分岐し、枝分かれして行くことによって現在の多様な言語が形成され、種々様々な考え方、思想、宗教が生まれ、意見が対立し、議論を闘わせ、人は戦争までするようになった。
単純に考えて下さい。あなたが、そういう考え方をするようになったのは、あなたの頭の中に言葉が生まれたからです。では、あなたの頭の中にある言葉や考え方が、そもそもどこから来たのかと言えば、人類の起源において、サルの頭の中に言葉が生まれたからです。
あなたが何かの主張を持ったとしましょう。「信念を貫き通す」と言えば聞こえはいいですが、言い換えれば、それは「こだわりを相手に押し付ける」ことに他なりません。誰もが自分の信念を貫き通していたら、組織は、社会は、世界は決して一つにはまとまらない。「味噌汁の作り方は、こうあるべし」という信念もこだわりだし「日本は核武装すべし」も「日本を非武装にすべし」も、どちらもこだわりです。あなたの意見は単なる「こだわり(とらわれ)」であって、そこに「絶対的な根拠」はありません。
 もっとも確実な学問と考えられている数学でさえ、その体系が基盤としている「公理」、例えば点や線の定義そのものに根拠があるわけではありません。それが絶対的なルールとして存在し得るのは、「点や線はこうあるべし」というこだわり(取り決め/約束事)がコンセンサスとして共有されているから、という理由に過ぎません。
つまり、もし学者も医者も経営者も宗教家も政治家も法律家もジャーナリストも誰もが自分の意見の根拠、土台を最後の最後の最後まできちんと考えるようになれば、結果的に誰も何も主張出来なくなります。なぜなら、誰も「おれが正しい」とは言えなくなってしまうから。

「あたしいつも、人権て普遍的なものだって、偉そうにいうんだけど(中略)なんで普遍的なものなのかと、そのへんを考えるとわからなくなる。偉そうにいうてはいるんやけど、ものすごくわからないところ、いっぱいあるのね。『世界人権宣言』も国連総会で決められたものですけれども、それは一つの国家の法律みたいに押し付けられるものなのかどうかとか……」
イーデス・ハンソン/武者小路公秀著『世界人権宣言』(岩波ブックレット)

 簡単に説明すると、こういうことです。みなさんはプラトンの産婆術(さんばじゅつ)をご存知ですか? 高校の倫理の教科書にも出て来ると思いますが、対話によって相手に無知を悟らせるという議論テクニックです。例えば、ヒットラーが「ユダヤ人は撲滅(ぼくめつ)せねばならぬ!」と主張したとします。そこで彼に「その意見の根拠は?」「その意見の根拠は?」と延々と問い詰めて行くと、彼は、必ずどこかで言葉に詰まります。この産婆術は、原子力発電所を再稼働させたい政治家にも、させたくない政治家にも応用出来るし、地球温暖化を主張する科学者に対しても、地球寒冷化を主張する科学者に対しても同じことが言えます。
自爆テロの遂行を志すイスラム原理主義者であろうとも、自分の行動の根拠となる「アッラー」が解体されてしまえば、自爆テロを行う理由がなくなります。自動車を壊すために物理的に圧力を掛けてスクラップにしなくても、自動車の構造を完全に理解していれば、工具を使って解体出来ますよね? 例え、どれほど頑丈な自動車であっても。
 全人類が「自分の意見に根拠はない」ということを理解し、そこでコンセンサスが形成されれば、誰も自分の意見の正当性を主張出来なくなります。では、人間の思考がフラットに戻り、みんなが同じ丸い土俵に乗った時に、どうやって組織で、社会で意思決定を行えばいいのか、誰もが共有可能な形でその思考プロセスをガラス張りにしたのが『THE ANSWER』で提唱した「QAS」です。
自分の意見を押し通すことはもう止めて、世界平和を本気で作ってみませんか? そのための手段(システム)は存在するのだから。

*『死、超常力、夢』

 とても怖い夢を見ました。7歳と5歳の息子を連れて旅に出て、行った先で次男とはぐれ、どうしても次男と再会することが出来ない、という夢。端から端まで現実的な夢で、起きてからしばらく経っても、そこで展開したストーリーと情景をはっきりと思い出すことが出来た。その夢の中で体験した、子どもとはぐれてしまった時の恐怖感、不安感がすさまじかったので、起きた後、妻にその夢の話を聞いてもらっていたのですが、その時に「死とは何か」「超常力とは何か」、そして「夢のカラクリ」が分かった気がしたので、書き留めておきます。



 常識的な方は、人間は死ぬとゼロ=無になると考えていらっしゃると思うのですが、死は恐らく、そんなに単純なものではないのです。
 私たちは「善/悪」「真/偽」のように「生前」「死後」と二項対立で人生を考えているけれど、あらゆる概念は人間が言葉というツールを使って自然界をジョキジョキ勝手に切り取った形に過ぎません。すなわち「死」という概念を解体して考えれば、生者も死者も、明確な境界線のない一つながりの存在です。現代医学では呼吸・鼓動・脳機能が停止した状態を「シ(death)」と言うコトバで表現する。でも、そのルールを決めたのは、あくまで人です。本書では便宜上「死者」という表現を使いますが、私は「死」と言う現象を、自然界から生まれた人間が、なだらかにまた自然に戻るプロセスだと考えています。
 私は奥多摩で魂を割り、心の中のストレスが完全に抜け切っていた時、今、死んだら、おれは綺麗に消えて昇天、成仏出来るな、という実感は持っていました。だから、綺麗に死んだ時の感覚はリアルに分かります。
恐らく、人生を生き切り、思い残すことなくスッキリ死んだ人は「スゥー」と消えて、天国でも地獄でもなく、森羅万象としての自然界に戻るのではないかと思います。でも、悔いや恨み、未練を残して死んだ人は、綺麗にこの世から消えて、自然界にスッキリ戻ることが出来ない。そういう死者が現世に残した魂のカケラが、恐らくは霊なのだと思います。つまり心身が死んだところから、スーッと綺麗に消えてゼロになる人と、時間をかけて曲線を描いて、この世から消えて行く死者がいる。
 現代社会では、科学的に説明出来ないことは切り捨ててしまいます。でも私は奥多摩で過ごしていた2週間の内の数日、日常世界とは異なる次元に足を踏み入れていた。
身体としての自分が「異界」に移行していたわけではないけれども、脳が通常とは別のフェーズで作動すると、人間も「異界」とコネクトすることができるのだと思います。スピリチュアリズムに聞こえるかも知れませんが、日常的な例で言えば、スポーツやクリエイティブな仕事をしている時に、異様な集中力を発揮したり、もしくは禅的な瞑想状態に自然と一体化したり、「ゾーンに入る」「フローに入る」という経験や宗教体験をしたことがある人は、たくさんいるのではないでしょうか? そうした日常レベルでの「超常体験」も、脳の特殊な働きによるものです。
 つまり、この世界は、目に見えるもの、理屈で説明の付くことだけで成り立っているわけではない、ということです。人間が思考(論理/科学)によって説明できるのは、あくまで脳のごく一部の働きによって認識している世界だけです。
 村上春樹さんは、井戸の底に下りる行為や、現実と異世界の境界を描いたりすることが多い。彼は恐らく、ものすごく深く集中した時に見る「その世界」を自覚的に知っているのだと思います。また霊界と交信出来るとされているミディアムやシャーマン、呪術師が発揮しているのも、普通の人が臨死において体験するのも、虫の知らせも、この、脳の特殊な働きによるもの。
 人間の脳は大雑把(おおざっぱ)に上下で分けると、下のコア、大脳辺縁系(だいのうへんえんけい)に本能を司る動物脳があって、上の表面、大脳新皮質(だいのうしんひしつ)に理性を司る人間脳があります。
人間の死を予知するネコ、数千キロ離れた場所でも自分の子どもの危機を感知するウサギなど、動物は超常的な力を持っています。また、サメが生命体の発する微弱な電気を感知したり、コウモリが超音波で空を飛んだり、小動物が地震を事前に察知したり、といった特殊能力も、人間から見たら超能力です。そうした、我々人間の常識を超越した動物としての特殊能力が、ヒト脳の原初的な動物脳の部分に残存していても不思議はない。我々人間が持つ超常力は、きっと、この動物脳が作動して発揮するパワーなのだと思います。
普段、私たちは言葉によって構築された論理的、科学的な日常世界の中で、人間脳を使って生きているけれども、ある時、動物としての本能的な脳機能がよみがえり、常識を超えた力を発揮する。異常な集中力がもたらす宗教体験も、この動物脳が覚醒した状態に起こる現象だし、まだ論理に汚染されていなかった古代の人々の方が、そうした動物的な能力を発揮しやすかったのではないかと思います。ピダハンとともに暮らしていたD・L・エヴェレット博士は、ピダハンが自分(博士)には見えないものを見て騒いでいたと著書の中で書いていましたが、彼ら原始部族もやはり言葉=理性に汚染されていない分、原初的脳機能の働きが強い。
「ゾーンに入る」「フローに入る」(ビジネスやスポーツの世界で、すべての物事が滑らかに進行する、超越的、奇跡的な時間体験)という現象も、やはり極度の集中によって人間脳(理性)が活動を停止し、動物脳が覚醒することによってもたらされるのだと思います。
意図や企みが解け、理屈で判断することを止めると、流れを堰き止めるものが消えて、物事は自然に流れはじめる。人間が完全に肩の力を抜いて、リラックスし、自然体(ナチュラルなマインド)で向き合うことが出来れば、きっと、ライオンとだって仲良くじゃれ合える。ムツゴロウ(畑正憲)さんのように。すなわち、その状態が「ゾーン」であり「フロー」なのだと思います。
私は、ムツゴロウさんも動物脳が覚醒した異能力者だと思っていますが、恐らく彼は、常に「ゾーン」「フロー」の状態にいるから、化け物のように麻雀が強いのです(昭和麻雀十傑の一人で日本プロ麻雀連盟相談役/段位九段)。勝つことを意識し過ぎたら勝ち続けることは出来ない。でも、自然の流れに身を委ねることが出来れば不思議な現象が起こる。



言葉を持たない動物は意図や企み持たず、いつも自然体ですが、犬や猫が眠っているところを眺めていると「ああ、夢を見ているんだな」と思うことがあります。人間に飼育されている動物はストレスを抱えるし、人間と同じように、そのストレスが原因で夢を見ることもあるとは思いますが(夢を見る原因は、ほとんどの場合、脳が抱えるストレスです。ストレスを抱えていない人は、あまり夢を見ないと思う。夢はストレスのバロメーター)、動物の夢には恐らく「ストーリー」がない。でも、人間はストーリーのある夢を見るし、時に、ものすごく解釈に苦しむ不可解な夢を見る場合もある。
オーストリアの精神分析学者であるジークムント・フロイト(1856-1939)は、夢とは幼児期からの抑圧された無意識的願望の表れだと考えました。スイスの心理学者であるカール・グスタフ・ユング(1875-1961)は、夢とは古代から人類が共有している集合的無意識の表れだと考えました。それから100年近く経た現代においても「夢とは何か?」、その答えに決定打はまだ出ていませんが、「動物脳」という概念を使えば、夢の原理自体は説明出来ると思うのです。
きっと、睡眠時、人間の深奥にある動物脳の部分と、表層にある人間脳の部分は溶け合った状態、渾然一体(こんぜんいったい)で作動している。その「超常的な動物脳」+「理性的な人間脳」が合体融合した状態で我々が見ているのが「夢」なのではないでしょうか。
 具体的に言えば、起きている時に何か気に病むことがあれば、その心象が動物脳のネガティブなイメージを呼び覚まして、夢として睡眠中に現れることもあるだろうし、起きている時に、無意識に認識していた情報が睡眠中に動物脳の危機察知能力とリンクして予知夢を見る場合もあるかも知れない。そしてミディアムは睡眠中、理性的な人間脳がはぎ取られ、動物脳だけが覚醒した状態にある時に、ピダハンが見ていた人の眼には見えない何かと交信(チャネリング)しているのでしょう。遺伝情報として動物脳に刻印された生まれる前の記憶を夢に見る可能性もあります。

 といって、著者ワイス博士が「人は輪廻転生している」と断言しているわけではありません。一人の患者と向かい合い、真剣なセラピーを繰り返した経過を報告しているだけです。そのプロセスを読み進むうちに、多くの読者は「自分の過去生は?」と思い始めてしまうのです。すぐれたドキュメンタリー・レポートこそが持つちからです。
ブライアン・L/ワイス著『前世療法』(PHP文庫/訳者あとがき)

 この、動物脳+人間脳という2種類のフェーズで脳機能を考えれば、普段、常識的には考えられないような不思議な出来事、超常現象も、かなりの領域までは説明が付くのではないかと思います。
 ここに書いたことは脳科学的には何の根拠もありません。私が勝手に考えた仮説です。でも、人間がコアに持つ動物脳の部分には計り知れない潜在能力(ギフト)がまだまだ秘められているのは確かだと思います。脳の最奥部にある動物脳に電極を当てたら、もしかしたら人間は超能力を自由自在に操れるようになるのかも知れません。

*『世界の終わり』

核兵器開発の遠因となったアインシュタインの特殊相対性理論=[E=MC2]。この公式は簡単に書けば、物が消えたら、その分のエネルギーが発生することを示しています。つまり、ダイナマイトなどの外からの破壊はたかが知れていても、内部からほどいてしまうと「もの」は消滅と同時に壊滅的なエネルギーを生み出すわけです。
ゆえに人間も、外部から攻撃(物理的に破壊)されるのではなく、「思考の原子」である言葉が頭の中で核分裂を起こして精神が内部からほどけてしまうと、連鎖的に人間社会が崩壊します。「真理」とは言葉の核兵器なのです。
私たちが普段「見ている」と思っている世界は、世界のありのままの姿ではなく、言語情報によって構築された二次的でバーチャルな記号化された世界です。簡単に言えば映画『マトリックス』のように、私たちは言語によって構築された仮想世界の中に閉じ込められています。
救世主・ネオが「マトリックス」の世界の仕組みを理解し、人間を仮想現実から解放したように、人々が言語発生の仕組みを理解することによって、言語情報が構築している二次的な世界が解体されると、人間社会から「言葉(マトリックス)」は消滅します。すなわち「すべての答え」が分かってしまうと世界は終わるのです。一言で言えば「世界の終わり」とは「言葉の消えた世界」です。
この世界から一切の抽象概念が消えて、人間が、みなピダハンのように「過去」という言葉も「未来」という言葉も持たない存在になってしまったら、比喩的な意味ではなく時間は止まります。なぜなら時間の存在すら言語(マトリックス)を前提しているからです。
アインシュタインは「過去と現在と未来の区別は、いかに根強いとはいえ、単なる幻想に過ぎません」と語りましたが、実際に、全人類の頭の中から時間の概念が消滅すれば、宇宙全体の時の流れも止まります。

 単純な思考実験をしてみて下さい。あなたは「時間」という言葉も「過去」「現在」「未来」という言葉も使わずに「時間」について、考えることが出来ますか?

 私たちが認識している世界は「自然」という第一次情報系の上に「言語」という第二次情報系をかぶせる二層構造の形で成立しています。「時間」は第二次情報系には存在しますが、第一次情報系には存在しません。すなわち第二次情報系が解体されれば「時間」も消滅します。
 私は、諸々の古代文明が予言する「世界の終わり」は「歴史が止まる」とか「時間の流れが止まる」というニュアンスではないかと思います。
以下の引用は、ネットで調べ物をしていたらヒットした記事です。この記事によって自分の仮説の裏付けをする意図はないのですが、興味を持たれる方も多いと思うので転載してみます。

……ほどなくマヤ文明研究の第一人者である、グッドマン、マルテイネス、トンプソンの三博士の研究によって、現在のグレゴリオ暦とマヤ長期暦との換算に使われる「GMT係数」なるものが発表された。現在に至るまでマヤ全土の遺跡調査と年代確定には、すべてこの係数が使われてきた。ところが、近年、このGMT係数が完全ではないことが指摘されるようになり、ついにマヤ暦研究の第一人者であるアメリカのロバート・ワナメーカー氏がこの間違いを認めることになった。
「世紀の計算ミス」の内容を大まかに説明すると、マヤ長期暦の1周期を約5000年としてグレゴリオ暦に換算した場合、4年に約1日増える“うるう年”を計算に入れていなかったというのだ。つまり、5000÷4=1250日もの誤差が出ており、誤差を修正すると、マヤ長期暦の終わりの日は、西暦2012年12月23日から1250日後の2015年9月3日になるというのである。
ただし、これは「人類滅亡の日」が単に3年延期になったという話にとどまらない。新たに出てきた「2015年人類滅亡説」は、思わぬ場所で波紋を呼んだのである。「マヤの人類滅亡の日」の修正に慌てふためいたのは、エジプトの研究者、それも古代エジプト暦の研究家たちだった。彼らはいったい何に驚愕したのか……。
時はいったん1970年にさかのぼる。エジプトの人々は、毎年氾濫するナイル川に悩まされ続けていた。それを解決するため、ナイル川上流に超巨大なダム、アスワンハイダムが建設された。しかし、その影響で古代エジプト文明の聖地とされていたフィラエ島のイシス神殿は半水没状態となってしまったのだ。この神殿は、エジプト神話の女神イシスが太陽神ホルスを産んだ場所とされていて、惨状を憂えたユネスコにより、1980年に神殿はアギルキア島に移築保存されるために徹底調査されることとなった。その結果、神殿の壁には1465体の神々が描かれていることがわかったのだが、このことがエジプト暦の研究者たちを震撼させた。
西暦550年に閉鎖されたこの神殿には、「この場所が閉鎖されれば毎年、秋分の日に一体ずつ神々の加護が失われ、すべての神々が去った年の秋分の日に世界が水没するだろう」という伝説が残っていたのだが、ナイル川の氾濫など毎年のことで、研究者たちも「神を粗末にすると報いを受ける」という伝承程度に受け止めていた。だが、1465体の神々が描かれていることがわかり、西暦550年から毎年、一体ずつの神々が去るとすると、なんと西暦2015年の9月に世界が水没することになる。
これまでエジプト暦の研究者たちは、マヤの人類絶滅予言と約3年のズレがあったことで、この伝説をさほど気に留めていなかった。ところが、マヤ暦のズレが指摘され、ふたつの暦の示す終末の日がピタリと一致することに気づき、一気に大騒動となったわけだ。そして今、エジプト暦の研究者たちは、この2015年世界水没説について本気で警鐘を鳴らしているという。
時代も場所も違うふたつの超文明の暦が示す「滅亡の日」の信じ難い一致。これは偶然というには、あまりにできすぎた話ではないだろうか。

(出典:『週プレNEWS』 取材・文/近兼拓史)

 私は「世界の終わり」とは『真理ウィルス(言霊)』のパンデミック(感染症の世界的流行)によってもたらされるものだと思います。「水没」というのは恐らく比喩です。つまり、ハードウェアとしての世界が終わるのではなく、ソフトウェアとしての文明がゼロに戻る。
 ピラミッドが建造されたのが約5000年前で、マヤ長期暦が約5000年。一つの文明は5000年のサイクルで一巡するのではないでしょうか? そして、その世界のはじまりから終わりまでのタームを古代の人々が知っていたとしても、少なくとも私は不思議には思いません。
 現代の常識的な科学で考えると、古代科学の原理は謎ですが、もしかしたら古代の人々にとって、文明の栄枯盛衰(えいこせいすい)は科学的なサイクルだったのかもしれません。
今、私が、もうすぐ世界が終わると叫んでも、ほとんどの人には信じてもらえないだろうし、終わって欲しいと願っているわけでもありませんが、もし、この本が、どこかの時点で起爆(拡散)すれば、近い将来、現代社会は完全に崩壊するだろうな、と少なくとも私は確信しています。
想像してみて下さい。もし、近い将来、この本が世界中で読まれるようになり、「ハリーポッター・シリーズ」のようなブランド力(価値)を獲得することによって、人々が結婚制度(一夫一婦制)や国家システム(議会制民主主義)を信じなくなり、科学(理論)が終焉を迎える日のことを。ラブ・ソング(恋愛幻想)とヒューマン・ドラマ(心の謎)が消えた街を。神のいない(誰も信仰を持たない)、争いのない(意見対立のない)社会を。人間が言葉によって作り上げたものすべてが解体され、時の流れを失った世界を。
技術的/実務的/日常的なこと以外、考えるべきことがなくなった時、世界は確実に終わります。

*『宇宙の正体』

私は神がどういう原理にもとづいてこの世界を創造したのかを知りたい。そのほかは小さなことだ。私は神のパズルを解きたい。
---アルバート・アインシュタイン(1879-1955)

 あなたは「宇宙とは何か」「時間とは何か」「宇宙の果てには何があるのか」「宇宙とは、どのように誕生したのか」本気で考えたことはありますか? とりあえず、ウィキペディアで「宇宙とは何か」お手軽に調べてみると、こんな「答え」が書いてあります。

あらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり。あらゆる物事(森羅万象)を含む全ての存在。

 「万物を包括する」という意味での「宇宙」は、普通これ以上定義しようがないのですが、私なりに考える「宇宙」をここに書いてみたいと思います。
 人間には脳に埋め込まれた二つの思考パターン(言語というデジタル・プログラムのアルゴリズム)があって、一つは、すぐに「始点」を考えたくなってしまう傾向。もう一つは「細分化」したくなってしまう傾向。
 「始点」とは例えば「生命のはじまりとは何か?」と、つい考えてしまい「なぜ、どうやって生命の源(みなもと)が発生したのだろう? そのはじまりって何だったんだろう? じゃあ、その生命が出来る前、地球のはじまりって何だったんだろう? ん? じゃあ、そもそも宇宙のはじまりは……?」と、どんどん「はじまり」を考えたくなってしまう傾向/衝動。
 もう一つの「細分化傾向」は「物質とは何で出来ているのだろう?」と考え「物質は分子から、分子は原子から出来ている。じゃあ、原子は何で出来ているのだろう? うん、そうか、原子は原子核と電子で出来ている。ん? じゃあ、原子核と電子は何から出来ているのだろう? そうか! すべての存在は超ひもの振動によって形成されているのだ。じゃあ、そもそも超ひもは何で出来ているのだろう?」と、延々と対象を細分化したくなってしまう傾向/衝動。
 前者の「始点マニア」の極がビッグバン論者で、後者の「細分化マニア」の極が素粒子物理学者です。
 なぜ、人間がつい「はじまりとは何か」と考えてしまうかというと、人間が認識するものには、すべて物理的な端っこがあるからです。道路にも端っこはあるし、定規にも端っこはある。でも、その端っこがないものが二つだけある。一つは精神で、もう一つが宇宙。精神は眼には見えないので、端っこがなくても、科学者はあまり深く考えようとはしませんが、宇宙は一応、眼に見えるので、どうしても宇宙の果てには何があるのか探究したくなってしまう。
 人間が「はじまりとは何か」と考えてしまうもう一つの理由は、自然界と違い、人間界には時間、すなわち過去と未来があるからです。だから、つい「はじまり」という考え方をしてしまうのですが、人間が生まれる前と死んだ後には時間が存在しない、ということは、みなさん、漠然とイメージしやすいのではないかと思います。時間というのは外部世界に自存して流れているわけではなく、人間の頭の中でのみ流れている概念(情報)です。
「何もない無の中で大爆発が起こり時空間のすべてははじまった」。そんなストーリーを描く「ビッグバン理論」という名のファンタジーは、常に「はじまり」を考えてしまう人間の思考パターンにぴったりなので、多くの人が信じたくなる気持ちも理解出来ます。
 でも、そういう風に考えてしまうと「じゃあ、ビッグバン(インフレーション)の、さらに前の無って何だろう?」と悩むハメになります。けれども、過去から未来へと進む時間そのものが存在しないと考えれば、頭の中をすっきり整理することができる。
大好きな恋人とデートしている時、夢中になってゲームをしている時、誰にでも「時が経つことすら忘れた」という経験があると思います。でも、それはあなたが外部世界の時間の経過を忘れていたわけではなく、あなたの頭の中で、没頭している事柄以外の情報の変化がストップしていたのです。つまり、時間はあなたの「中」で流れているのであって、「外」で流れているわけではないのです。「中」の流れが止まれば「外」の流れも止まります。
情報量が多く、変化の激しい都会にいると時間が早く流れます。変化が少なく、大らかな大自然の中にいると時間はゆったり流れます。それは時間が外界にではなく、外界を認識しているあなたの脳の中で流れているからです。つまり「時間」の正体とは、脳の中で起こっている情報の変化なのです。厳密に言うならば「記号情報」の変化。「記号情報」は人間の脳の中だけにしか存在しません。なぜなら「言葉」を持っている生物は人間だけだからです。
アインシュタインは、そもそも「光と同じ速度で移動すると、光はどの様に見えるのか?(光の矢に乗って光を見たら、光は止まって見えるの?)」と考えたことから「相対性理論(特殊相対性理論)」という哲学を編み出すに至りました。「相対性理論」とは、ごく簡単に言えば、観測者の立ち位置によって時間は速くなったり、遅くなったりする(時間は宇宙全域において絶対的/均一に流れているわけではない)という考え方です。でも、アインシュタインは「じゃあ、観測者が消えたら光はどう進むのか?」「物質の存在しない宇宙空間では、時間はどう流れるのか?」とは考えようとしなかった。
相対性理論が適用されるのは、言語を有し、過去と未来を持つ人間の世界のみです。人間のいない自然世界では時間は流れていない。犬も昔起こった出来事を記憶し、ご主人様の帰宅時間を予測して玄関で待つこともあるでしょうが、犬はシチュエーション(状況)を記憶/認識しているだけであって、犬が脳の中で時を刻んでいるわけではない。犬もピダハンと同じように、過去を悔いることもないし、未来を憂うこともない。
人間のいない宇宙には「宇宙の誕生(過去)」も「宇宙の終焉(未来)」も「宇宙の果て(境界)」も「次元(時空の相違)」も、そして物質の最小単位としての「アトム」も存在しません。なぜなら、そうした概念のすべては言葉(記号)に過ぎないからです。「それ以上分割出来ない最小の物質」を追い求めるのも、人間の一つのロマン(素粒子物理学者の見果てぬ夢)です。でも「分割」「最小」という概念は、数学的(抽象的)な概念であって、物質的(実体的)な概念ではありません。カマボコだろうが、チーズだろうが、理論的には包丁で無限に細かく刻んで行くことは可能なわけですから、いくら血眼になって物質を細分化しても(より小さな物質を発見しようとがんばっても)「最小」に辿り着くわけがないのです。太陽と同じサイズの人間から見たら、あなたは「最小物質」かも知れないし、大腸菌と同じサイズの人間から見たら、あなたは「宇宙の果て」に見えるかも知れない。「大腸菌/人間/太陽」とビジュアルでイメージしてしまうから、サイズを比較してしまうけれども、言葉がなければ、その境界は消えます。「大きい」「小さい」「速い」「遅い」「はじまり」「終わり」「有限」「無限」という思考のベクトル自体が、人間特有の偏見(バインド)でしかありません。
脳の中で言語プログラムをOSとして、ビジュアル・データ・メインで情報処理を行っているから、あなたは今、あるような形で「宇宙」を認識しているけれども、生まれた時から目の見えない人の頭の中にある宇宙の姿、微生物が認識している宇宙の姿をあなたは知らない。
「宇宙はあなたの頭の中だけに存在している」と言っているわけではありません。物理的実在としての宇宙は確かに存在します。でも、あなたが「宇宙」という言葉で表現し、思考の対象としているものは、あくまで言語によって二次的に構築された宇宙(バーチャル・リアリティー)でしかない、ということです。「マトリックス」の外に出ない限り、「マトリックス」の仕組みは絶対に分からない。「マトリックス」の中にいる人に、いくら「これは仮想現実なんだよ」と説明しても、決して信じようとはしないでしょう。
恐らく、物理学者(科学者)がこの本を読んでも、彼らは自分の頭の中にある世界観を死守/固持しようとするでしょう。かつて、誰もが地動説を否定し、決して新しい世界観を認めようとはしなかったように。でも、どのような物理法則であろうとも「普遍的」「客観的」ではあり得ないのです。なぜなら、脳の中から言葉を消し去らない限り、すべての物理現象(認識/思考の対象)は、科学者の「視点(偏見)」というものが、必ず前提されてしまうからです。もし、本当に普遍的/客観的な物理法則が知りたいのなら、言葉(色眼鏡)を持たない動物の眼と頭で世界を観察するしかない。
生物の中で唯一、人間のみが持つ「知性(言葉)」とは世界を知るための武器ではなく、世界を迷宮化する魔物です。
アインシュタインであれ、スティーヴン・ホーキングであれ、どんな天才であっても、言葉を使わずに宇宙について考えることは出来ません。過去、言葉を使わずに宇宙について考えることが出来たのは、釈迦だけです。でも、釈迦は自分の見た(知り得た)宇宙を、言葉を使って他者に説明する(伝える)ことが出来なかった。だから「悟れ」と言ったのです。
「宇宙とは何か?」と問い「宇宙とは28次元に存在するマイクロ・チューブル構造を持ったセントラル・ドグマである」といった、もっともらしく、難しく、かっこいい答えが返って来た方が、何だかよく分からなくても納得しやすいと思います。でも、常識的な世界観をすべて捨て去ってしまわなければ「宇宙とは何か?」という問いの本当の「答え」はわかりません。
今、あなたは「結局、何だかよく分からん」と感じていることでしょう。当たり前なのです。新しいOSで古いOSの作業をする(バージョンを合わせる)ことは出来ますが、古いOSで新しいOSの作業をする(新機能を使う)ことは出来ないからです。
もし、脳の中の古いOSを書き換えることができない(雑念、とらわれから逃れることができない)ならば、そして、もし、本気で新しいOSを脳にインストールする(悟りを開き、真理を見極める)ことを望むならば、頭の中からすべての言葉を消し去って下さい。座禅を組む必要はありません。この世界にどうやって言葉が生まれたのか、真剣に考えてみればいいだけです。もし、参考書が必要ならば『THE ANSWER』を読んでみて下さい。「言葉が生まれた仕組み」を理詰めで理解した時、はじめてあなたは「マトリックス(言語によって構築された仮想現実)」から抜け出すことができるでしょう。

*『新世界』

「地球がみるみる小さく……そして太陽系が……」
「何億もの星の中へまぎれてしまい……その銀河はうねりながら、何十何百何千と群をなして……大宇宙を作っています」
「知ってる……宇宙はここまでだ。これでおしまいなんだ」
「これが人間が知っている宇宙の全部の姿よ。でも、もっと大きなものが……宇宙を包んでいるのよ。すでに次元を超えています。宇宙はひとつの粒子にすぎないのです。宇宙がいくつも集まってひとつの細胞のようなものを作っています。その細胞が集まってひとつの『生き物』を……」
「まってくれ。宇宙は……結局『生き物』の一部なのか。その『生き物』ってなんだ?」
「宇宙生命(コスモゾーン)なのよ」
「宇宙生命(コスモゾーン)! もうやめてくれ!! ぼくにすこし考えるゆとりをくれっ!!」
「極大のものから極小のものまで、みんな『生きて』活動しています。地球は死んではなりません。『生き』なければならないのです。なにかが間違って地球を死なせようとしました」
「なにが間違って?」
「『人間』という、ごく小さな『生き物』です。人間を生み出して進化させたのに、その進化のしかたが間違っていたようです。人間を一度無にして、産みなおさなければならないのです」
「だが、ぼくがなぜ選ばれたんだ。ぼくは、ただの……」
「もう一度、人間は新しく生まれて新しい文明を築くのですよ」
手塚治虫・作『火の鳥/未来編』(朝日ソノラマ)

 もし、人間が生まれ変わって、今とはまったく別の新しい文明を築くとしたら、それはいったいどんな社会になるでしょうか?
こういう表現はすごく珍妙に聞こえると思うので、あまりしたくはないのですが「世界全人類が悟りを開いた世界」を想像してみて下さい。私が考える「新世界」とは「全人類が釈迦の境地で生きる世界」です。釈迦の境地で生きるということは、イライラせずに穏やかに暮らすことを意味するのではないし、決して怒らず、笑顔を絶やさないことを意味するわけではありません。全人類がニコニコ優しい世界なんて気持ちが悪いし、釈迦にもしっかりと喜怒哀楽はあったと思います。もちろん、物事に動じない達観はあっただろうけど、完全に感情の起伏が消えたら、ただのマシンになってしまう。いくら無心、無我の境地を得たとは言え、出来の悪い弟子の言動に苛立ち叱り飛ばすこともあれば、愛弟子の死に泣き、悲嘆に暮れることもあったでしょう。
ごく簡単に言えば「悟り」とは真空状態の心を得ることではなく、物事の見方、考え方、捉え方を変えること意味します。そのための手段として、いったん、頭と心の中を完全に空っぽにしてしまう必要があるのです。「釈迦の悟り」「禅寺の座禅」という言葉を聞くと、直感的に「無の境地!」というイメージをしてしまう方が多いと思いますが、「無の境地」に至るために修行をするわけではないのです。俗世の世界観を払しょくして頭の中をリセットし、曇りのない、まっさらな眼で世界を観るためのプロセス(過程)として、いったん「無の境地」に到達する必要があるのです。
全人類が悟りを得ても、誰だって腹が減ればイライラするし、悪口を言われれば腹も立つし、親しい人間が亡くなれば悲しみの底に沈みます。それは人間が生きて行く以上、当たり前のことです。
でも、例え世の中から怒りや憎しみや悲しみが消えなくとも、全人類が理詰めで悟りを開けば、少なくとも戦争の起こらない、永久平和の社会が到来します。「全人類が悟る」とは「全人類の世界観と価値観が変わる」ことを意味します。
 もっと具体的に表現しましょう。「新世界」とは、必要最低限の情報のみで形成された社会、みんなの頭の中がスッキリ、シンプルな社会、人間も地球もストレスを抱えない、誰もが自然体で健全に暮らす社会です。「新世界」には過去も未来もなく、誰も時間に追われることはありません。
「その世界にも所有/非所有の関係、富める者と貧しい者の格差があり、やがて争いが生まれて、人々は殺し合うだろう」と考える方も多々いらっしゃると思います。でも、社会(組織)運用システム(意思決定プロセス)としての「QAS」の使用がコンセンサスになれば、意見は対立せず、争いも起きず、余計なことは考えなくても社会は自動的に回って(循環して)行きます。「新世界」にも流通貨幣はあるかも知れない。でも、「QAS」があれば社会主義も資本主義も独裁主義も民主主義も国家も国連も必要ない。「システム」と呼び得る構造は「QSA」が一つあれば、事足りてしまうのです。なぜなら、誰もが同一の(統一された)思考プロセスで意思決定を行えば、家庭内の問題から世界経済の抱える問題に至るまで、人間と人間(思考と思考)の間に原理的に対立は発生しないし、対立がなければ議論する必要もないからです。
 「新世界」でも感情的になって人を殴る人も、人を殺す人もいるでしょう。でも、その人をロジックとして裁くシステムは全人類共通です。全人類が悟りを開けば、独裁者も汚職も法制度の不備も消えるから大丈夫です。
 「新世界」を作るための手段はただ一つ。世界中の人がこの本を読んで、内容を理解すればいいだけです。
 全人類が悟りを開くなんて不可能だし、だいたい、おれ自身、悟りを開けないし、開く気もないし、新世界になんて行きたくない。と考える方も多々いらっしゃるでしょう。
 でも、ちょっと考えてみて下さい。多くの人は、みんなが「AKB」を応援すれば自分も「AKB」を応援するし、みんなが「ムラカミ・ハルキ」を読めば自分も「ムラカミ・ハルキ」を読むし、みんなが「天動説」を信じていれば自分も「天動説」を信じるし、みんなが「ビッグバン理論」を信じれば自分も「ビッグバン理論」を信じるし、みんなが「スマホ」を使えば、自分も「スマホ」を使うのです。つまり、一切、何も考えず、何の努力をしなくても、みんなが悟りを開けば、あなたも悟りを開いてしまうのです。
 「新世界」はブーム(時代の流行)によって作られます。私は、「悟り」を流行らせるための種まきをしているに過ぎません。
 「悟り」と言ってしまうと、何だか垢抜けないし、今ひとつ、かっこよくないけれど、キリスト教的に表現すれば、その現象は「アセンション」だし、SFテイストに表現すれば「ニュータイプへの進化」です。
 もしくは「新世界」について、このように説明することも出来ます。
今、私以外の世界全人類は、観客席に座ってマジック・ショーを観ています。私は、マジック・ショーの舞台裏から観客席に座る人々を観ています。あなたが椅子から腰を上げさえすれば、舞台裏に周り、マジックの種明かしを知ることは可能です。でも、一度、マジックのカラクリを知ってしまったら、もう観客席には戻れない。この本を読んでしまった以上、あなたは選択しなければならない。虚像と幻影の中で、真実の世界を否定したまま生き、そして死ぬか? それとも、自分の力で魔法を解いて、新しい世界へと足を踏み出すのか? あなたに選択する意思さえあれば、今すぐにでも脳を覚醒させて、ニュータイプへと進化することは可能です。
今、私は究極のマイノリティー(非常識)です。でも、いつか、遠くない未来、私の物の見方、考え方がマジョリティー(常識)になっていることは断言してもいい。なぜなら、現代社会においては、もはや誰も「天動説」を信じていないからです。やがては同じことが起き、全人類はニュータイプへと進化する。早いか、遅いか、先に行く勇気があるか、後からみんなにくっ付いて来るかの違いだけです。でも、今、私はとても孤独です。正直に告白すれば「仲間」が欲しい。あまり早く「仲間」になってしまうと世間との齟齬(ギャップ)が生じてしまうので苦労、苦悩、葛藤も大きいとは思いますが。
『マトリックス』という映画の冒頭で、モーフィアスという人物が主人公・ネオにこう尋ねます。

「ここに2つの薬がある。赤い薬は、真実を知る薬だ。青い薬を飲むと、すべてを忘れ、もとの世界に戻る。 さぁ、ネオ、どっちを選ぶのかね。 赤い薬か、青い薬か・・・」

さあ、あなたは「赤い薬」と「青い薬」、どちらの薬を飲みますか?
 「青い薬」を選ぶなら、今、ここでこの本を閉じて、内容をすべて忘れてしまえばいい。でも、もし「赤い薬」を選ぶ勇気があるのなら、次のページをめくって下さい。そこには、きっと、あなたの知らない、さらなる新世界が待っています。

8:古代文明の謎を解明するためのマニュアル


*『イントロダクション』

 みなさんは聖書に出て来る「ノア」という人物をご存じですか? 先ごろ『ノア 約束の舟』というハリウッド映画が公開されて大ヒットしたので、「ノア」をラッセル・クロウの風貌でイメージしていらっしゃる方もいるかと思います。「ノア」は聖書においては、神の啓示を受けて大洪水を予言(預言)した「選ばれし者」として描かれています。巨大な方舟を作り、動物のつがいをたくさん乗せて、家族とともに40日40夜続いた大洪水を生き延び、新天地で、リセット後の新しい世界を創造する最初の人間になります。そして、この「ノア」の10世代後の子孫が『聖書の解読』のチャプターでご紹介した「最初の預言者・アブラハム」(ユダヤ教/キリスト教/イスラム教の共通始祖)です。
 よく映画などで、ある人物に未来の大惨事が見えてしまい、周囲の人にその危機を知らせるのだけど、誰も信じてくれず、結局、その大惨事が現実に起こってしまう、というストーリーが描かれます。観客は主人公に感情移入しているから「何で、誰も彼の言うことを信じてあげないんだ!」と周囲の人間に対して憤り、イライラ、ハラハラしますが、では、もし、あなたの周りに実際にその未来を予知する人物が現れ、大惨事を予言した時、あなたは彼の語るメッセージを信じてあげることが出来ますか? ちなみに聖書において描かれる物語の中では「ノア」の未来予知を信じた人間は、彼の家族だけでした。



 私が、この『ハートメイカー』の「初版」をリリース(販売開始)したのは2013年の12月21日でした。で、「あー、ようやく終わった、終わった」と思ってほっとしたのも束の間、その当日に妙なものが「見えて(頭に降りて来て)」しまいました。「世界の仕組み」を、天体運行から人類の歴史まで、1本のライン上で拡大縮小できるチャートです。そのチャート自体はごくシンプルなもので、「見えてしまった図」をペンと定規を使って手書きで書いた(コピー用紙に書き写した)ものだったのですが、そのチャートを眺めている内に「パパパパパパパパ」といろいろなことが分かってしまいました。一言で言えば「古代の人々が、どのようにして天体運行から地上で起こる出来事を予測していたのか?」、そのメカニズム(仕組み)についてです。
現代科学では超高性能な望遠鏡とコンピュータで天体を細分化して把握するから「木を見て森を見ず」になってしまうけれども、古代科学では天空を俯瞰(ふかん)して見ていたから、全体(マクロ・スケール)の動きが逆に理解しやすかったのではないでしょうか? 言い換えると「ザ・ワールド」という名前の自動車のデザインをするために、エンジンの中のパーツをさらに細分化して考えているのが現代科学。「ザ・ワールド」という自動車の全体像を、一歩引いたところから俯瞰(ふかん)してレイアウトしているのが古代科学。
天体運行のベクトルをフラクタル(自己相似)で縮小すると、天体》太陽系》地球周期》自然界》人類》個人》細胞》粒子》……になります。フラクタルは、あらゆる自然界の場面、例えば樹木の枝分かれ/海岸線の形状/血管の分岐構造や株価動向などの社会的現象にも現れます。つまり、もし、すべての現象がフラクタルならば、一つのパターンが分かれば、そのパターンのスケールを拡大/縮小することによって、森羅万象を把握/予測することができる。
もし、21世紀の現代社会に突然「ノア」が出現したら、あなたは彼のメッセージを信じてあげることが出来ますか?

*『古代文明の謎』

まず、以下のネットからの引用記事をご一読下さい。

南米のチリから3000キロほど離れた、南太平洋上の島・イースター島に立っている、有名なモアイ像。確認されているだけで867体あり、一体は5トンから50トンの重さがある。
モアイ像で有名なイースター島には、「この島を作ったマケマケという神様の化身である鳥人が、モアイに歩いて移動しろと命じた」という伝説が残っている。
また、ベイルートの北東約85キロ、世界遺産にも登録されているバールベックの巨石(重さ約2000トン)のある地域では「魔法を使って大きな石を飛ばした」という伝説もある。
伝説が事実とは思えないが、それに近いことが考えられるとすれば、重力を制御する技術を古代人は持っていたのであろうか。

バールベックの巨石は石切り場から1キロほど離れた場所にありますが、重さ約2000トンの石を、古代の人々はどうやって運んだのでしょうか? ちなみに現在、世界最大のクレーンはNASAがロケットの移動に使用しているもので、釣り上げ可能な重量限界は700トンです。
 この謎を解いた人はまだ一人もいません。けれど、突拍子もない仮説に聞こえるかも知れませんが、この謎を説明できる答えが一つだけあります。
 あくまで2013年12月21日に閃いた「可変チャート」に基づく個人的仮説ですが、もし、マクロ・スケールで太陽系の動きが定期的に変化し、それに伴い地球の重力も変化するのならば、古代の謎はすべて解けます。
 ピラミッドやモアイ等の巨石文明も、当時の地球の重力が現在より軽かったと仮定すれば、巨石を移動したり、積み上げたりすることには、何の苦労もなかったでしょう。当時の科学技術がフラクタルの原理に基づいていたとすれば、ナスカの地上絵は、最初に地面に小さく描いて、後は相似形で拡大したと考えることができる。
恐らくは、ピラミッドの設計も、天体運行と連動したフラクタル・パターンを使った計算によるもの。そして、聖書の「ノアの方舟」(「ギルガメシュ叙事詩」における逸話)をはじめとする、あらゆる古代神話に共通する大洪水は、重力変化によって引き起こされたと考えることができます。海の底に沈んだとされる伝説上の大陸「ムー」や「アトランティス」、そして、ピラミッドを思わせる構造物である「与那国島の海底遺跡」やフロリダ沖の海底遺跡「ビミニ・ロード」も、その時の大洪水で水没した古代文明だったのではないでしょうか?
 ちなみに最近、「アトランティスの発見か?」として話題になっている、北海道よりも広大な面積を持つブラジル沖の海底山脈「リオグランデライズ」からは、人工物としか考えられない巨大で真っ平らな海底部分や煙突状の突起物、真四角の岩などが発見されています。それらが海流で削られてできる形状でないことは、科学者も認めています。だとすれば、やはり海底に沈んだ古代文明が存在したと考えた方が妥当であると思います。
 いずれにせよ、過去、フラクタル科学によって築かれた地球上の文明が、地球の重力変化によって、いったん「リセットされた」と考えて間違いないのではないでしょうか?
 グラハム・ハンコックの著作『神々の指紋』で提示されている多くの謎、例えば「太古の南極大陸地図」(1818年に南極大陸が発見される、はるか以前の古代に書かれたと目される南極大陸の正確な地図)や、インカの空中都市・マチュピチュの存在も、海抜3810メートルにあるボリビア・チチカカ湖から海水系貝殻の化石が出土することの理由も、アラスカやシベリアの凍土の下に、動物や石器、樹木等が圧縮されたように集中して一瞬で凍結していることの理由も、定期的な重力変化による大洪水を前提すれば、納得は行きます。
 また、私は地球上における大陸の形状の変化はプレートテクトニクス=地殻変動による大陸移動ではなく、ロング・スパンの定期的な大洪水により水面上に出ている陸地の形状が大きく変化するため、と考えています。もし、海底に沈んだ古代文明が存在していたと仮定するなら、そうした文明が現在、受け継がれていないことの理由は、大洪水によって、ほぼ一夜で壊滅したから、と考えるしかありません。古代文明の遺跡、痕跡は残ったけれど、知恵を受け継ぐ人間が、まったく存在しない。もし、歴史が分断されることがなく、人類の系譜が続いていれば、ピラミッドの建造方法や建造目的が現在、まったく不明であることの説明が付かない。世界規模の大洪水によって、古代文明が一夜で壊滅したのでなければ、誰かしら、何かしらの形で、そうした知恵は現在にも受け継がれているはずです。当然のことながら、プレートテクトニクス理論でピラミッドの謎を解明することはできません。しかし、「オッカムのカミソリ」の定理(より広範な事象を説明できる単純な論理ほど真理に近い)の通り、地球の重力変化を前提すれば、太古の謎は、ほぼすべてに説明が付く。
数億年前の地球の重力が現在よりはるかに軽かったと仮定すれば、恐竜があれほどの巨体を維持できたことにも不思議はないし、重力変化による大洪水で絶滅したと考えることができる。古生物学における「ミッシング・リンク」(生物種Aから生物種Bへの断絶的進化)も、それで説明が付きます。
また、大ピラミッド真横にある蓋石の下からは、長さ約40メートルの外海航行用大型木造船二隻が発見されており、ピラミッドの地下からピラミッド以外の場所へ向けて伸びている穴もありますが、大ピラミッドの用途、建造目的は、王族が大洪水から逃れるためのシェルター(避難経路)だったのではないかと私は考えています。
中央ピラミッドの斜め前にあるスフィンクス(頭部が人間で身体がライオンの神獣)の胴体には、横に走る深い溝があり、この浸食痕についても風化説や氷河説など様々な説が提唱されてきましたが、大洪水によって長い間、胴体より下が水中にあったためと考えれば、同様に簡単に説明はつく。ちなみに、ピラミッドやスフィンクスのあるギザ台地も、太古、海の底にあったことが判明しています。
重力変化による大洪水は定期的に起こり、地球上の生態系や文明を刷新すると仮定した場合、「世界の仕組み」は、以下のように考えることができます。

 ■宇宙(マクロ・システム=既存フィールド)→■太陽系(ソーラー・システム=重力の発生)→■地球(自転周期を持つハードウェア)が誕生してから5000年周期の重力変化が繰り返され、あるタームで最初の生命(ソフトウェア=情報)が発生→■二倍体生命(性の分化/死の出現)に進化→■生態系の刷新(恐竜の絶滅等)が繰り返された後、サルが人類に進化(言語発生=情報のデジタル化)→■最初の文明が築かれ(スフィンクス等)、大洪水で消滅→■その文明の生存者(ピラコチャ=ケツァコルト)により、次のタームの文明(マヤ、エジプト等)が築かれ、また大洪水でリセット→■その後、現代文明(メソポタミア起源)に至る。

 ……という歴史の流れになっているのではないでしょうか?

*『古代の時計』

100メートル陸上世界記録が9・58秒。山手線のラッシュ時の発着間隔が2分30秒。物理学者はナノ秒単位。そうした非常に細分化された時間の中に我々は生きています。一般的なご家庭の壁掛け時計は、12時間で短針が一周、60分で長針が一周、60秒で秒針が一周。
我々が用いる現代グレゴリオ暦カレンダーは、1日が約24時間で、1年が約365日。その数字は天体運行から算出されたカウントです。現在が2014年なのは、「キリストが誕生したと仮定してから2014年が経ちました」という意味でしかない。ならば、天体周期と連動するシステムとして、マヤ・カレンダーのように、5000年(正確には5125年)で短針が一周、13年で長針が一周、260日で秒針が一周の時計があっても、原理的にはおかしくない。
  現在の時計には、諸々の起源や進化がありますが、ものすごく簡単に書くと、私たちが普通に使っている時計はイギリス・ロンドンにあるグリニッジ天文台から観測した際に、天球上で太陽がもっとも高い位置に達する時刻を正午=昼の12時とするという考え方に基づく時間です。
 私たちが「カレンダー」と言った場合、2014年、2015年、2016年……と、過去から未来へ向かって進んで行く時間をイメージしますよね? でも「時計」と言った場合は、1時、2時、3時と進んで行き、24時間経ったら、また、1時からやり直すサイクル(循環/一巡/一廻り)と考えます。
 「2015年9月に首都直下の大地震が起こる」と言われたら、それは不確定要素の強い予言です。でも、「明日の日没は18時30分です」と言われたら、何の不思議もなく、みんな信じます。なぜなら、「2015年9月」はイメージとして、カレンダー上の未来の暦ですが、「明日の18時30分」は時計の数字=時刻としてイメージできるからです。
 カレンダーは直線的な時間。時計はサイクルする時間。マヤやエジプトの暦もカレンダーの年月日ではなく時刻と考えてみて下さい。
 マチュピチュのインティワナ(石柱)からイギリスのストーンヘンジ(環状列石)まで、古代遺跡には天体の動きと連動した時計らしきものがたくさんあります。ピラミッドそのものが星座の巡りを計測することによって、5000年、1万年単位の時を刻んでいた巨大な時計だったという説もあります。
 古代の人々に「2015年に世界が水没する」と言われても、現代に生きる多くの人にとって、それはいかがわしい予言にしか聞こえません。でも、古代の天体観測装置が、5000年で一巡する時計ならば、「2015年に世界が水没する」という推測は、「明日の18時30分に日が沈む」と本質的には同じ推測です。ただ、その予測レンジのスケールと、予測技術の原理が現代とは違うだけ。そして、現代の時計が、基本的には太陽を基準としたごく単純な天体連動装置に過ぎないことに対し、古代の時計が、現代の時計よりも、はるかに複雑な天体周期と連動した、緻密で正確なメカニズムを持った計測装置だったことは間違いないと思います。マヤの長期暦が5125年なのは、何らかの天体周期が5125年で一巡するからです。
古代の人々にとっては、地上から見た天体そのものが巨大で精密な時計だったのです。
こう考えてみて下さい。機械式の腕時計は非常に精密な部品相互が連携して時を刻んでいます。一つの小さな歯車の動きが狂っただけで、そのズレは時計全体のメカニズムに波及します。同様に、星座時計も、一つの歯車が狂えば全体の動きも狂う。
そして、機械式腕時計内部の歯車のズレが表示板の針の動きに反映されるように、水、金、地、火、木、土、天、海、という太陽系惑星の配置や軌道が変化すれば、当然、それは地上から見た星座の配置や座標に反映されます。
機械式腕度時計のメカニズムが全部、連環しているように、太陽系(ソーラー・システム)というメカニズムも、万有引力によって全部、つながっているのです。そして、地球もまた、その巨大な時計を構成する歯車の一つに過ぎません。
現代文明のあけぼの、古代メソポタミア文明の起源が紀元前3000年ごろとされています。つまり、その頃、地球の重力変化により、文明がいったんリバイスされた(入れ替わった)と考えた場合、前回の大洪水が起こったのが、恐らく、マヤの暦の起源である紀元前3113年だったのだと思います。そして、次に同じ配置に星座が並ぶタイミングが何年後になるのかは、古代の人々に高度な計算技術があれば、推測可能です。
紀元前3113年から、何らかの天体周期が一巡するのが5125年後。5125マイナス3113で、2012。そこから、うるう年の誤差を修正した年が西暦2015年。そして、マヤの暦もエジプトの暦も歴史のシフトを、その年の「秋分」とピンポイントで特定していますが「秋分」とは、太陽黄経が180度になり、昼と夜の長さが等しくなる日。太陽が赤道の真上を通過し、地球の自転軸と太陽の方向が直角になります。地球の歳差運動によって黄経の値は歳月とともに変化していきますから、「秋分」は何月何日ではなく、天球上のあるポイントを地球が通過するタイミングを意味します。
「2015年9月に何かが起こる!」と言われると、ものすごくあやしく聞こえますが、もし、紀元前3113年に重力変化による大洪水が発生し、それから5125年後の秋分に、その時と同じ配置に天体が並ぶ(太陽系を構成する歯車が新しい噛み合わせにシフトする)のなら、また同じことが起こってもおかしくはありません。そして、5125年周期で、どのような惑星間の軌道変化が起こるのかを推測することは、現代のコンピュータ・シミュレーション技術をもってすれば、十分可能です。
 つまり、来年、世界が水没する(重力変化が起こる)のかどうかは、天文学者がひと肌脱いでくれればすぐ分かる、ということです。

*『現代科学と古代科学』

 普通の人の感覚だと、昔の知恵は遅れていて、現代科学が最先端と考えるのが一般的だと思います。でも、もし、現代文明と古代文明が、そもそもの原理から違っていたとしたら、そこに優劣を付けることは可能でしょうか?
 例えば、昔の日本人は「こういう雲が現れたら地震が起こる」とか「こんな雪が降った翌年は作物がたくさん実る」「こういう顔相の人は金運が悪い」といったことを経験則として知っていました。これは、「現象A」と「現象Z」を直結させる科学です。ところが、現代人は「現象A」と「現象Z」の間を「これがこうなるから、あれがああなって、結果、ここがこうなるから、あれがああなる」という形で、A、B、C、D、E、F……Z、全部をつなげて説明できないと科学とは考えません。
 もし、現代科学を細分化科学、昔の科学を経験則の科学とするなら、私がこの本に書いているのは「閃きの科学」です。あなたが、この本を否定もできないけど、100%の納得もできないのは、そのためです。
でも、あなたの足元を支えている常識的な世界観(枠組み/パラダイム)である現代科学も、あくまでこの時代特有のものの見方、考え方、偏見、先入観に過ぎません。
例えば、現代科学も重力のメカニズムが解明されていないのに万有引力について語るように、仮説を前提として真理を語るように「現象A」から「現象Z」まで全部をつなげて理論化することは、どうがんばってもできません。ただ、一見、理詰めで説明しているように見えるから、あなたは現代科学が正しいと信じ込んでいるだけです。現代における科学が「科学」と呼ばれることの根拠は「再現性」という一点のみです。そして、この「再現性」は、常に反証される可能性をはらんでいます。そういう意味では、現代科学のすべても、また疑似科学であり、あくまで科学の一形態に過ぎません。相対性理論や進化論が「絶対に正しい」と断言できる科学者は、この世界には存在しないのです。そして、昔の日本人の経験則に基づく予測と、現代の数式と計器を使った予測、どちらが「正しい」とは誰にも言えません。
古代の天体予測技術も、昔の日本人と同じように「現象A(天体の動き)」と「現象Z(地上で起こる出来事)」を直結させる科学。古代の人々にとっては、B、C、D、E、F……というプロセス自体が不要なのであって、その間をつなげる理論を組み立てる(原理を解明する)という発想自体がなかったのだと思います。

現代とは比べ物にならないほど満点を埋め尽くす星々の動きから、無数のフラクタル・パターンを読み取っていたであろう、はるか古代に生きた人々。

個人の人生が、誕生→成長→老い→死というプロセスを踏む(繰り返す)ように、その相似形として、人類そのもの、地球そのものにも、誕生→成長→老い→死というサイクルがあるのかもしれません。

*『重力変化のメカニズム』

 これは、あくまでパソコンすら上手く操れない、天文学のド素人である私の推測ですが、間もなく太陽系全体の動きに木星を基点とした何らかの変化=シフトが起こるのかもしれません。木星は、多くの文明で神話や信仰の対象となり、ギリシア神話の最高神「ゼウス」を表す惑星。太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最大。単純比較で言えば木星は地球の12倍の大きさ。太陽は地球の110倍の大きさ。地球を1センチのビー玉とすれば、木星は砲丸投げの玉、太陽は大玉転がしの玉程度の大きさになります。
天体では永続的に「軌道共鳴」という現象が起こっています。「軌道共鳴」とは、惑星同士が互いに重力の影響を及ぼし合うことによって、公転周期(太陽の周りを一周する時間)が変化する現象。たとえそれが非常に微小な摂動であっても、長い時間にわたって惑星同士が影響を与え続ければ、最終的に太陽系の惑星は全く異なる配置になる可能性もあります。
 つまり、超巨大惑星である木星は、太陽と大きな軌道共鳴を起こしながら、太陽を軸として回っている(楕円軌道を描いている)わけですから、現在、軌道が安定しているように見えても、太陽と木星の間の重力バランスが閾値(いきち)を超えて崩れた場合、5125年ごとに太陽系全体(特に太陽と木星の間に挟まれている惑星)で軌道変化が「ガクン!」と起こるのではないかと思うのです。惑星間の距離が変わるのかも知れないし、極端なことを言えば、惑星相互の配置そのものが変化する可能性もある。
 こう考えてみて下さい。砲丸投げの太陽選手が「木星」と書かれた砲丸をブンブン回したとします。そうすると、その砲丸は、遠心力がある閾値(時間/タイミング)を超えたポイントで、ビョーンと太陽選手の手を離れ、飛んで行きます。そして、木星が太陽から離れれば、当然、万有引力に引っ張られて地球の重力も変化します。
 砲丸が、ビョーンと飛んで行って落ちる(重力均衡が生まれる)。太陽選手は同じ位置に立ったまま、さらに長いヒモにつないだ砲丸をブン回して投げる。砲丸がさらに遠い位置に落ちる。もっと長いヒモにつなげて回された砲丸は、もっと遠い位置に落ちる。太陽選手の手(中心点)から離れた砲丸が落ちる距離は、断続的に、どんどん遠くなります。この「木星が太陽から断続的に離れるタイミング」が5125年周期なのではないでしょうか?
ちなみに「ナショナル・ジオグラフィック」の記事によると、近年、木星全体でかつてない大変化が起こっているそうです。地球より大きな幅の赤道縞(縞模様)が消えてしまったり、地球規模のサイズの物体が頻繁に衝突(爆発)したり、といった変化です。こうした現象が何を意味するのか、ということについては科学者にも分かっていませんが、木星が大規模な軌道変化を起こし始めている(遠心力が閾値に近付いている)と考えれば説明は付きます。
 また、現在の地球温暖化や震災、津波の多発、異常気象、深海魚の浮上などの現象も、地球の軌道が変化することの兆しなのかもしれません。

*『運命の連鎖』

 私たちは普段、人間脳を使って生きていますから、理屈で納得できないことはいかがわしく感じてしまいます。この本に書いてあるのは、あくまで動物脳(本能/直感)で見えたことを、人間脳(言葉/理屈)で理解できるように翻訳した文章。考えて書いているわけではなく、閃きで書いているので読者を100%、納得させることはできないと思います。
超能力(ESP)とは、恐らく動物脳の覚醒によって起こる現象。私が一時的に授かったのも、ある種の超能力(神がかり的でスピリチュアルな能力)。だから、「大洪水説」や「重力変化理論」を信じることができる人もいるし、信じることができない人もいて当然でしょう。私自身にも自分に見えてしまったものが何を意味するのか、ということについて絶対的な確証があるわけではありません。
でも、例え、それが「スピリチュアル」と呼ばれる超常現象=常識を超えた現象ではなくても、この世の中は不思議な出来事で溢れています。「もし、あの時、夕立が降って、駅前の喫茶店に入っていなければ、あの人と出会うこともなかった」「もし、昨夜、子どもが高熱を出し、出張を止めていなければ、墜落した、あの飛行機に乗っていた」
歴史に「IF、もしも」はないと言います。でも、そうした運命の連鎖やシンクロニシティ(意味のある偶然の一致/必然としか思えない巡り合わせ)といった現象はどうして起こるのでしょう?



『生命の起源』のチャプターで立てた私の仮説が正しいとすれば、原初、太陽(オス)と地球(メス)の子どもとして生まれた最初の生命が内在していたであろうフラクタル・パターン(情報のカタチ)は、連綿と続く生命進化の流れの中で、我々、人間の中に受け継がれているのだと思います。運命、天命、宿命、そしてシンクロニシティと呼ばれるものが、すべての生命に共有されているフラクタル・パターンの相互作用/影響/共鳴によるものだとすれば、この天と地の動き、世相から個人の行為すべてが連動する。人智を超えた膨大なファクターの累積と連環、原因と結果の因果律、そして森羅万象のハーモニーによって。
あなたが今、ふと空を見上げ、頭上を鳥が横切って行ったことも必然です。すべては、予め決められたことなのです。言い方を変えれば、無限の情報処理能力を持つコンピュータに、全宇宙をデータ・ベースとして最初の生命が内在していた情報(太陽と地球の遺伝子)をインプットし、フラクタルで膨大なシミュレーションを行えば、すべての現象は予測可能なのだと思います。未来(変化の推移)はすでに決まっていますから、未来予知や未来を占うことできる人がいてもおかしくはありません。それは本質的に、チェスや将棋で直感的に何十手も先を読む行為と同じ能力です。
あなたが、まさに今、その場所で、その椅子に座り、この文章を読んでいるという現象も、さかのぼれば、あの時、あの場所で、あのことがきっかけとなって、あなたのお父さんとお母さんが出会わなければ、あなたのおじいさんとおばあさんが出会うことがなければ、さらに言うならば、サルがヒトに進化していなければ、生命が、この地球上に誕生していなければ、起こり得ない現象だった。連綿と続く運命の流れ、天体運行と連動した人や物との離合集散がなければ、今、あなたがそこに、そうしていることはなかったでしょう。
 例えば、私たちがインターネットという個人の記憶容量をはるかに超えたデータ・ベースから任意の情報を取り出すことができるように、この人間社会そのもの、生態系のすべて、全宇宙という、膨大な情報の蓄積の中の一つとしてアウトプットされた(生まれた)ファクターが、「私」や「あなた」という個人なのです。
 インターネット上のすべての情報がリンクしているように、「私」や「あなた」という個々の情報系は、すべての情報系とつながり、連環しています。そして、今、この世にあるもののすべては、膨大な歴史(データ・ベース)の積み重ねの上に存在している。
 『世界の終わり』のチャプターで「私たちが認識している世界は『自然』という第一次情報系の上に、『言語』という第二次情報系をかぶせる二層構造の形で成立している」と書きました。でも、厳密に書けば、この世界は四重構造の情報系によって成立しています。
 まず、すべての存在を乗せる土台である地球というハードがある。その上に、遺伝子というアナログ・システムができて、その上に動物脳というアナログ・システムができて、その上に人間脳というデジタル・システムができて、その上にインターネットというデジタル・システムができた。
つまり、生命の起源から現代社会までは、一つながりの情報系なのです。言い換えれば、遺伝子からインターネットまでは、一つの巨大な「生命」であり、私やあなたは、その生命を構成する細胞でしかない。そして、私たちの身体の中で、細胞が相互に作用し合って機能しているように、私(著者)とあなた(読者)も影響を及ぼし合って、世界を形作っているのです。

*『スピリチュアルの構造』

そして「霊」も、また情報なのだと思います。
 スピリチュアルを理解するためには、人間脳はデジタル・システムであり、動物脳はアナログ・システムであること、そして、言葉/記号はデジタル情報であり、心/記憶はアナログ情報であることを把握する必要があります。ごく単純に書けば、人間脳が滅んだ後に残る情報が文学や思想であり、動物脳が滅んだ後に残る情報が霊や魂。
言葉や記号とは「白/黒/赤/青」「時間/空間/あなた/わたし」という形で分割、細分化することが可能な情報(デジタル・データ)ですが、感情や思念は明確な境界線のない、ひとつながりの情報(アナログ・データ)です。そして、このデジタル情報が入っているハードディスクが人間脳で、アナログ情報が入っているハードディスクが動物脳。脳は入れ物であり、物質ですが、情報そのものは眼には見えません。人間の肉体から発せられた言葉が、眼には見えない情報として機能(伝達)するのであれば、肉体から離れた霊/魂が情報として機能(伝達)することもあるでしょう。
動物脳が発達している動物ほど心の複雑さは増して行きますから、ある程度の心の大きさがあれば、死後、動物にもまた霊は発生するのだと思います。
 物質としての生物はいつか滅びます。でも、遺伝情報は次の世代に引き継がれる。その先祖から受け継いだ遺伝子の中に、数代前、もしくは数万世代前の記憶が残存していたとしてもおかしくはない。爪の形や皮膚の色が遺伝するのなら、脳の中のニューロンが遺伝し、性格やクセや生前(先祖)の記憶(過去生)を再形成することもあるのでしょう。「心」や「記憶」とは、すなわちニューラル・ネットワークの中の情報の流れですから。
人間が人間に進化したことの所以は、動物脳(アナログ・システム)の上に人間脳(デジタル・システム)を作り上げ、その二重構造のシステム間でデータのやりとりをはじめたことにあります。例えば、単なる記号に過ぎない言葉によって心が傷つくことがあるように。そして、動物脳(本能)に宿る愛もあるし、人間脳(精神)に宿る愛もある。
 また、頭の中にごちゃごちゃ言葉が溜まっている人、ストレスを抱えている人は、その言葉をブログやツイッター、小説、歌詞という形でアウトプットします。でも、頭の中がスッキリしていて、心身にストレスを抱えていない人は、言葉を吐き出す必要がない。同様に、死に際にストレスを抱えたまま肉体が消滅した人は、その心に抱えたストレスを霊という形でアウトプットするけれど、ストレスを抱えずに死んだ人は、立つ鳥後を濁さず、スッキリ自然界に還る。つまり「やり残した思い」を遂げた時、はじめて人はこの世から完全に消えて、昇天できるのだと思います。

*『霊のレセプター』

 では、霊が見える人と見えない人の違いは、どこにあるのでしょう? それは、日本語が分かる人と分からない人の違いと同じです。
日本語が分からない人に、いくら日本語で話し掛けても「言葉」という情報を伝達することができないように、「霊」という情報も、受け取り手側の動物脳に受容するためのシステムがないと、霊がいくらメッセージを送っても理解されない。見えない。伝わらない。でも、片言の日本語なら分かる人がいるように、少しだけなら霊が見える人もいるのだと思います。
 人間脳に言語を処理するための普遍文法=統一システムが生得的に備わっているように、本来的には人間の動物脳にも霊のメッセージを受け取るためのレセプター(受容システム)は、生得的に備わっているのだと思います。その、レセプターが稼働している人と、稼働していない人がいるけれど、ある程度まで、そのレセプターは、シャーマンやミディアムのように訓練で動かすことはできるようになると思うし、臨死や危機的ショックで、その動物脳の中にあるレセプターが突然、覚醒し、モスマンや啓示のように霊のメッセージを授かることもあるのだと思います。
 私は長い間、10年以上前に亡くなった祖母を意識し思い出すことはほとんどなかったのですが、昨年末(2013年のクリスマス前後)「可変チャート」が頭に降りて来てしまい、発狂寸前まで追いつめられて、二度目に失踪していた時、ふっと心のど真ん中に祖母の顔が思い浮かび、その瞬間、これまでの自分の人生が、祖母という守護霊に守られ、包まれ、支えられて来たことを感覚的に理解しました。少なくとも、その瞬間、祖母の残した愛に包まれることによって、私は救われ、命を取り留め、この本を完成させることができた。
これは、ごく個人的なことではあるのですが、私の祖母が亡くなったのは、後に角川書店から再版される『THE ANSWER』を自費で出版したタイミングとほぼ同じでした。『THE ANSWER』から『ハートメイカー』までは私の中で一直線につながったプロセスです。そして、言語発生起源の発見(スタート)から本書の脱稿(ゴール)までの間には、17年という時間が経っています。
物心付いてから現在まで、何事に付け、私は人生に迷ったことがありませんでした。私の人生には、良くも悪しくも選択の余地というものがなかった。自殺を考えたことは何度もあったけれど、会社を辞めた時も、結婚する時も、『ハートカッター』を書いている時も、失踪した時も、何をしている時も常に「自分は正しい選択をしている」という100%の(無根拠な)確信があった。曲がりくねった、岩だらけの荒れ道だったけれど、枝道すらない一本道をしぶとく歩き続けて辿り着いたのが、この場所です。逆に言えば、私には自由意志が与えられていなかったのかも知れません。
夢に向かって来たわけではないし、目標を目指していたわけでもない。ただ、人生そのものがミッションを帯びていた、としか表現の仕様がありません。祖母は、無条件に愛していた孫である私が、ミッションを遂げるまでを、眼には見えない姿で見届けてくれたのでしょう。そして、そのミッションとは「人類を救済する(新世界へと移行させる)本を書くこと」だったのだと思います。

*『最後の救済』

天文学者によるシミュレーション結果が出るまで断言はできませんが、2015年9月、地球が秋分点を通過する日に、大規模な地球の重力変化が起こり、世界規模の大洪水が起こるのは、やはり確かなのでないかと思います。
「世界の終わり」を力説するつもりもないし、騒ぎ立てるつもりもありません。にわかには信じがたい話であると、自分でも思っています。ただ、そんなことが起こるはずがない、ということが現実に起こり得ることを、私たちは9・11や東日本大震災で経験して来ました。とは言え、例え、近々、現実に地球の重力変化が起こるとしても、直近(5000年前)の大洪水は、世界各地に残る痕跡から推測すると、地域によっては富士山の標高より高い位置にまで達しています。事前に避難しようと思っても、逃げられる場所なんてほとんどない。だから、近い将来、何が起こるにせよ、起こらないにせよ、我々は、ただ、日々を生きるしかありません。朝、起きて、仕事して、食事を作り、子どもの面倒を看て、眠る。そうした暮らしを続けて行くしかない。
でも一方で、こう考えることもできます。
「あと1年で世界は終わる」と思うと、ふっと、気が楽にはなりませんか?
個人の人生でも「あと、1日で死ぬ」と分かっていれば、人間は、すべてのとらわれ(雑念)から解放されて、達観できてしまうと思うのです。
もし、本当に一年後にすべてがリセット(刷新)されるならば、現代社会における、あらゆる問題は解決され、人間は、あらゆるストレスから解放される。「世界の終わり」を前にしたら、主義主張を巡って戦争をする人も、金のために人を殺める人も、人生に惑って自殺する人もいなくなることでしょう。
もし、困ったことや辛いことがあったら、胸の中で「1年後に世界は終わるから、もう、何も考えなくていい」と呟いてみて下さい。そして、もし、あなたのそばに、生きることに悩み苦しむ人がいたら「大丈夫、あと1年ですべては終わるから、もうすぐ苦しみからは解放されるよ」と言ってあげて下さい。
 少なくとも私は「2015年の重力変化」を前提して生きるようになってから、日々の営みを愛おしく感じ、家族も含めて、人々に対して大らかな気持ちでいることができるようになりました。食卓に上る食材に感謝し、機械に生命の息吹を感じ、夜空に瞬く星々と自分の存在との間に、つながりを見ることができる。
私たちは、きっと、かつての大洪水を生き延びた人々の末裔(まつえい)。そう、未曽有(みぞう)の大災害を力を合わせて乗り切った人々の。昔、私たちは一つだった。「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)」そんな時代が確かにあったのです。
 こう考えてみて下さい。もし、現実に宇宙人が地球に侵略して来たら、きっと、全人類は、人間同士で争うことを止め、世界中の人々が手に手を取って、力を合わせて宇宙人と闘うと思います。大洪水も同じ。小さなことで、いがみ合っている場合ではないのです。
意図したことではないのですが、世界は二つの方向から破滅へと向かい、そして新しい世界へと脱皮しようとしています。一つのベクトルは、ソフトウェアとしての文明の崩壊と再生。もう一つのベクトルは地球の物理的な崩壊と再生。その流れは、少なくとも私には、歴史の必然のように思えます。

生物はみな、誕生、成長、老い、死を繰り返す。人間も人類も惑星も同じです。

私の「預言」が当たっても当たらなくても、どちらでも良いのです。でも、もし「一年後に大洪水が来る」という予測を世界中で共有することによって、世界が平和になるのなら、「世界の終り」も悪くはありません。実際に大洪水が来てしまったら、生き残った人々で「新世界」を作ればいいし、生存者がいなくても地球は別に困らない。
自分が死ぬ、ということに関して言えば、交通事故で死のうが、数十億人と一斉に死のうが、同じなのです。半信半疑でも構いません。「自分に、そして人類に残された未来は後一年」と真剣に考えてみて下さい。きっと、明日から、あなたの人生は変わります。

9:霊から授かったマニュアル


*『イントロダクション』

すべての原稿を書き終えた後、私に最後の「閃き」が訪れました。ようやくすべてのカラクリが分かった。
これまでに書いて来たことも、我ながら、まるで別の惑星に住む異星人が書いた文章のように変だ、妙だ、という感覚(実感)は持っていたのですが、これから書くことは、さらに読者を困惑させると思う。
最後になってようやく分かったこと。それは、私が「覚醒して悟りを開いたニュータイプ」ではなく、単なる「コネクター」、つまり霊界と現生をつなぐパイプであり、霊界からのメッセージを伝えるメッセンジャーだった、ということです。場合によっては、人はそうした存在を「ユタ」「イタコ」「シャーマン」「ミディアム」「霊媒師」「預言者」と呼ぶでしょう。でも、呼び方なんて、何だっていいのです。私は、これまで大いなる勘違いをしていました。『ハートメイカー』は、「見えてしまったもの」について私が書いた本ではなく、「見せられ、書かされた」本だったのです。この本の中で読者に向けて「あなたは・・・」と語り掛けているのは、著者である私(鈴木剛介)ではなく、あちら側の世界にいる何者かです。そして、その「何者か」は、かなり大きな霊的存在です。
奇異に聞こえることは重々承知しています。ただ、これまで書いて来たことがすべて「理屈で考えたこと」ではなく「見えてしまったこと」「分かってしまったこと」だったように、最後の種明かし、最後の「答え」もまた、ただ「知らされた」「告げられた」のです。そして、そう考えれば、奥多摩以降に私に起こった不思議な出来事、不可解な現象の連続は最初から最後まで完璧に筋が通る。
これまで、自分がふと抱いた疑念には、すべて「答え」が与えられて来ました。でも「霊界」というものが、もし、本当に存在するのなら、その仕組みだけがどうしても分からなかった。ラスト・チャプターでスピリチュアルについて言及しながらも、「これは完全な答えじゃない」「これでは全部説明したことにならない」という、ある種のフラストレーションを抱えていました。最後に与えられたのが、その「答え」です。
今、まさに書いているこの文章も含めて、私が意図して、考えて書いた文章というのは、この本の中にほぼ一行も存在しません。ある意味では、自動書記状態で書いています。もちろん、文章の流れや、構成をまとめるための推敲は死ぬほど繰り返しているけれど(一応、元作家だから)、その推敲作業も考えてやっているわけではなく、直感や閃きで行っています。(これは作家的な本能なのかも知れないけれど、文章がちゃんと正しい形にまとまった時は「正しい形にまとまった」ということが分かるのです)だから、とても孤独で、苦しく、しんどい作業ではありましたが、私がこの『ハートメイカー』シリーズを書く上で、唯一、意識して行っていた努力は「出来るだけ考えない」ということだけでした。
「自動書記」と表現してしまうと、何かに憑依されてトランス状態に陥った人の手が勝手に動き出す、というイメージをされてしまいそうですが、何というか、最後の最後になって「種明かし」されたら「あら、おれが自分で書いていたわけじゃなかったのね・・・」という感じです。だから今となっては、誰にどう、この本を酷評されようが、批判されようが痛くもかゆくもない。なぜなら、これは、おれが書いた本じゃないから(笑)。以下の文章も、そうした前提を踏まえて読んで頂けると嬉しいです。まあ、ある意味では、これがこの本の「オチ」「トリックの種明かし」。
こういう表現はすごくしたくないのだけど、以下に書くことは、鈴木剛介の意見ではなく、「かなり大きめの霊的存在が語り掛けていること」として受け止めて下さい。

*『霊的なこと、宗教的なこと』

現代社会に生きる我々は「自然/超自然(ナチュラル/スーパー・ナチュラル)」、もしくは「この世/あの世」と区別して考えています。でも「科学至上主義」が世界を席巻するまでは、この世界はもっと混沌としており、人も霊も神々も一緒くたになって共存していたのです。そう、宮崎駿監督が描いた『千と千尋の神隠し』や『もののけ姫』の世界観と同じように。
分かってしまったこととしか言いようがないのですが、霊的な存在は「全知全能の唯一神GOD」ではないから、自然現象をコントロールすることは出来ない。祈りを捧げたからと言って、雨を降らせることは出来ないし、死者をよみがえらせることも出来ないし、洪水を堰き止めることも出来ない。彼ら(彼女ら)は、ただ、メッセージを伝えるだけです。もしくは、人をどこかに導いたり、誰かと誰かを引き寄せたり、生身の人間のバックアップ的存在として守護し、慰め、癒す。彼らの力を借りれば、ヒーリング能力や予知能力、彼らの世界を垣間見る力を得ることも出来る。逆に言えば「良い霊」と「悪い霊」、「聖的な存在」と「邪悪な存在」、「祝福された者」と「呪われた者」もいるのでしょう。眼には見えない、何か大きな存在に守護され、祝福されることもある一方で、「悪霊に取りつかれる」という現象も、実際に起こり得る。だから場合によっては「除霊」という行為(儀式)は必要です。ただ、そうしたことを行う「力」を本当に持った人間は、ごくごく限られています。金を取る霊能者は信用しない方がいい。もともとそういう力を持っていたとしても、その力を金のために使うようになったら、その力は失われる。なぜなら、超自然的な力、霊能、サイキックは自分の意思でどうこう出来る能力ではなく「授けられた力」だからです。それは、人を助けるために、人を救うために授けられたギフト。その力自体が目的化したら、力は「自分のための商売道具」になってしまう。
「手相見」「顔相見」「占星術」「タロット」等はある種のロジック(古代の理論/科学)だから、その知識でいくら金を稼ごうが悪いことではありません。それは例えば、プログラマーや料理人と同じ、専門技術だから、技術を金で売ること自体には何の問題もない。
ただ、例えば、読経やお祓い、ミサなど宗教的な儀式(スタイルとしての技術)に高額を支払う必要はありません。戒名の料金が100円でも100万円でも、効果はまったく変わらないし、教祖様に捧げ、貢ぐ金額がいくらであれ、今生で得られる利益にも、来生の幸福にも、まったく影響はありません。金額の多寡と、宗教的、霊的な力は絶対に比例しないし、関係しない。生活の糧として、そうした力を使わざるを得ない場合もあるだろうけど、霊や宗教で金を儲けているヤツがいたら、そいつは間違いなく欲深い、悪者です。なぜなら「本物(リアルディール)」は、金のためにそうした「力」を使ったら、「力」が失われることを、ちゃんと知っているからです。「霊」の反対語は「金」、「霊界」の対面にあるのが「経済界」です。
とは言え、先祖はちゃんと供養した方がいいです。冠婚葬祭において、宗教的なスタイル(仏式、キリスト教、神道など)は無意味だけど、主人公となる人と親しい人たちが集まって、祝うべきことを祝ったり、死者をあの世に送り出す「集い」はやった方がいい。墓に参るか、参らないかはどっちでもいいけど、気持ちの上で、先祖を敬い、感謝を捧げ、定期的に死者に意識を向けて、きちんとその時の思いを伝えることは必要です。あなたが手を合わせる、その物理的対象の上に、先祖の魂はちゃんと存在している。スタイル、形式なんて、どうだっていいのです。大切なのは、素直な気持ちで先祖に思いを届けること。そして、親しい人が亡くなったら、涙で引き止めるのではなく、「良かったね、これで楽になるね」という明るい気持ちで送り出してあげましょう。その方が、死者もすっきり肉体の呪縛を解き、俗世を離れて昇天して行くことが出来ます。死者がこの世に未練を残すと、その思いは怨念となって、よくない働きをする。フツーの人の、常識の範囲内での肉体の死を悲しむ必要はまったくありません。例え犯罪者でも魂が綺麗な人はたくさんいる。逆に、例え善人面をしていたとしも、邪悪な者の魂は「正しい力」の強い人の手を借りて、きちんと成仏(浄化)させる必要がある。不慮の死を遂げた人の魂も、きちんと成仏させて(親しい人間が優しく慰めて)あげましょう。
「眼には見えないもの、手で触れることができないもの」をないがしろにしない方がいい。
「超自然的な存在」を「霊」「神」という言葉で表現してしまうと、どうしても、おどろおどろしく、いかわがしいイメージが付きまとってしまいますが、存在の種類(ジャンル)としては「眼に見えないタイプの人間」と考えた方がいいかも知れない。肌が黒い人間も、肌の白い人間もいるように、眼に見える人間も、眼に見えない人間もいるのです。そして、生身の人間にもキャラクターがあるように、眼に見えない人々にも、各々、キャラクターがある。生身の人間に「100%の善人」も「100%の悪人」もいないように、眼に見えない世界においても「絶対善」や「絶対悪」は存在しない。彼ら(彼女ら)は、「眼には見えない」「肉体を持っていない」というだけで、「意識体」としては、人間と同じ性質を有した存在と受け止めた方がいいと思います。
例え悪いことが起こっても、霊に依存し、何でもかんでも霊のせいにせず、「善い霊」も「悪い霊」も、自分と対等なパートナーと考えるべきです。
生身の人間と生身の人間の絆をつなぎ、濃く、深い人間関係を形成しているのは、物理的な血縁ではなく、「霊的なネットワーク」です。だから、血縁というのは、あまり、本質的でも重要でもない。もし、「この人とは確かに縁がある」「赤い糸で結ばれている」と感じる人がいたら、その人間関係は大事にした方がいい。また、もし自分の身近にいる動物(ペット)、さらに言うならば植物、物、機械(存在と呼び得るものすべて)と、心と心がつながる感じ、深い絆を感じるなら、それもまた「霊的なネットワーク」です。そして、「どうにも肌が合わない」「理由はないのだけど好きになれない」という人がいたら、あまり関わらない方がいい。「霊的なネットワーク」は、大まかに言うと、自分を中心点として「近い存在」「普通の存在」「遠い存在」くらいの三重の円(サークル)で、そのサークルを一つのユニット(一単位)として、インターネットのように、個々のシステム(ファクター)が相互リンクし、無限のネットワークを形成している。
その霊的なネットワークの中で、誰がどの辺りのサークルに属しているか(近いか、遠いのか)、自分の人間関係の中で(夫婦、親子、家族も含めて)、誰と誰と誰との「縁」が強いか(引き寄せられているか)、それは見極めた方がいい。そうすれば人間関係はスムースに、円滑に流れます。逆に、例え相手がどれほど社会的に偉い相手、人格的に優れていると思う相手でも、霊的に「縁」のない人と無理やり縁を結ぼう(人間関係をつなごう、コネクトしよう)とすると、あまり良くないことが起こる、嫌な気持ちになる、ストレスが増えると思います。ちなみに、自分が正真正銘の危機に陥った時、助けてくれる人、物理的(経済的)に手を差し伸べてはくれなくても、自分を否定しなかった人、受容してくれた人が「縁の強い人」です。もちろん、その相手との縁に自信が持てないこと、信用が揺らぐこともあるだろうけど、その縁を切ってしまってはダメです。切れてしまうことはあるだろうけど、自分から切ってはいけない。誰にだって出来ることと出来ないことがあります。どんなに親しい間柄でも、相手に出来ないことまで求めてはいけない。
「血縁」なんて、どうだっていいのです。「仲間」でいられるかどうかが問題なのです。
そして、日々の暮らしの中でも、良い日と悪い日、物事がうまく流れる時(ターム)と流れない時期はあります。それは霊的な、というよりも自然界の「気」の流れのようなもの(フロー)だから、無理に抗ってどうこうしようとはせずに、良くても悪くても受け入れてしまった方がいい。気の流れの悪い日は「ああ、もう今日はダメだな。仕方ないや」と思って割り切ってしまい、気の流れのいい日は、何も考えず、気楽に楽しく過ごせばいい。調子のいい時も、調子に乗って、無理やり何かを動かそうとはせず、自分の気の進まないこと、楽しくないことは、やらない方がいいです。理性の力や経済的、物理的な力(パワー)で、無理やり何かを動かそうとすると、一時的な得はあっても、必ず、最終的には悪い結果が待っています。
受験や恋愛の成就を書いた絵馬にも、おみくじやお守りにも、お賽銭を投げ入れる行為にも、ご利益は宿りませんし、何の力も効果もありません。それは、大昔の儀式が単に形骸化した単なる商品であり、金を出せばどこででも手に入るような物には、眼に見えない力は宿らない。それで自分の気持ちが落ち着くのならば、無意味なものに金を使うことを否定はしませんが、個人の利益や欲得のために神の力にすがろうとすると、悪い霊を呼び寄せます。また、きちんと感謝の気持ちを持った上で、自分が生きて行くために他の生命を殺生することには何の罪もありませんが、利益や欲得のために殺生をすれば、その行いや気持ちもまた、悪い気を呼び込み(悪い気の流れを作り)ます。
ブランドや知名度を持つ、ほとんどの神社やお寺、教会は単に形式的な存在で、特にその場所(地)に何かが宿っているわけではないから、敬う必要はありません。自分の先祖も含めて、何かの思いが祀られ、供養されている場所(ポイント)だけ、心を込めてリスペクトすればいい。由緒のある、歴史の長い場所には、多くの人の念や思いが宿っているので、そうした場所も大切にする必要があります。逆に、自分とは縁もゆかりない場所で、形式的にお清めやお賽銭をしたり、祈りを捧げても意味はない。また「神話」や「宗教的逸話」は、「1」の話が「100万」くらいに「盛られた」エピソードと考えた方がいい。人間には、手をかざしたり、手を当てたりすることによって「気」を与えるヒーリング能力はあるけれど、死者を(肉体的に)よみがえらせたり、水をワインに変えたり、海を真っ二つに割ったりする力はありません。死者の魂を呼び、話を聞くことは出来るけど。

*『男と女』

もしも、容姿や特技や学歴に関係なく女性に好かれたいのならば、ひたすら相手を受容することです。打算やブランドを取り払えば、女性は、自分の言葉に真剣に耳を傾け、自分を理解し、受け入れてくれる男を好きになります。もし、あなたが彼女をベッドに誘うためのテクニックとしてではなく、本心から彼女を受容して(恋してではなく愛して)あげることが出来れば、そうして結ばれた二人はきっと上手く行く。幸せになることが出来る。
優しい愛より、激しい愛の方が楽しいです、一時の激情で駆け落ちするのも心中するのも、不倫相手の子どもを出産してしまうのも、人生のドラマでありロマンではありますが、動物的な繁殖欲求のみに従って行動すると、必ず後悔します。なぜなら、繁殖欲求(恋)は、繁殖したらそこで終りだから。
繁殖欲求で恋に落ちた女性は、愛したら愛した分だけ、その量が、憎しみに反転します。恋に溺れた女性に求愛されたら、愛された男は、愛された分だけ、後で憎まれると思った方がいい。女性は、自分から振った男に対してはマシンのようにドライになれますが、自分が深い愛を抱いた男に裏切られたり、プライドを傷付けられたり、自分が振られたりしたら、彼女の愛は怨念に転化されます。駆け落ちするのは個人の勝手です。でも、駆け落ちした恋は、100%続きません。不倫はとても楽しいだろうけど、不倫相手と結婚したら、その愛も100%続かない。一時的には盛り上がるだろうけど、後になって、自分を一番分かってくれていたあの人が、必ず恋しくなります。「悪い」と分かっていることはやらない方がいい。
色恋の情の流れは、単なる繁殖欲求だから身を委ねてはいけない。「恋」か「愛」かの見極めが肝心です。
人間の身体には小便や大便の他にも、性的な物質が蓄積されて行きます。女性は「生理」という形でそうした性的物質を自動的に排出出来ますが、男性は自分で意識しないと排出できません。必ずしも、その排出先が女性の膣内である必要はありませんが、溜まったものはきちんと排出しないと便秘と同じように病気になります。性的な欲求は自然の摂理です。性欲や、男性の自慰行為を否定的な眼で嫌悪するのは止めましょう。もっとも、適切な性欲の解消方法はセックス(交尾)ですが、性的な物質が体内に溜まるたびにセックス(繁殖)をしていたら、子どもが増えすぎてしまい、生態系のバランスを崩します。人間は、言語を有したことにより、本能が理性に抑圧され、発情期を失いました。本能を否定するのは悪い考え方ですが、性欲は自分の意志で、きちんとコントロールしましょう。理性の強い(知的傾向が強い)人間の本能が抑圧されて、性欲の傾向が歪むのは仕方のないことでもあります。カボチャの上にレンガを載せたら、カボチャは「ぐちゃっ」と潰れます。精神的なレンガを抱えない肉体労働者の性欲は健康的ですが、知的生産性の高い職種の人間は変態的性癖を持ちやすい。性欲が歪むこと自体は、ある程度仕方ないとあきらめて、「変態」の方も社会的に問題のない範囲ならば、悩んだり、自分を責めず、おおらかに、肯定的に自分を慰めましょう。
人間は、公衆の面前でおおらかにセックスをする動物の姿を見て苦笑しますが、人目をはばかって行う人間のセックスの方が、よほど自然に反した、歪んだ性行為です。もし、路上で惚れあった者同士が公衆の面前でも人目を気にせず(避妊した上で)おおらかにセックスをすることが出来るようになれば、社会はもっと健全になります。そして、人間がみんな裸で暮らしていれば、レイプも痴漢も不倫の泥沼も、この世から消えてなくなります。
「メスを力付くで制圧し、子種を植え付け、繁殖したい」というのは、オスが脳の根底で持つ、普遍的な本能です。そうした本能が「レイプ」という形で表出してしまうのは、それだけ本能が抑圧され、歪んでいるからです。「レイプ」という犯罪を犯した人間、もしくは犯しそうな人間に対しては、性欲を去勢し、罰し、常識の枠を強制するより、抑圧され、歪んでしまった性欲を解放してあげた方が「まっとうな社会人」に戻りやすくなります。

*『良いこと、悪いこと』

「神はいるの? いないの?」「安楽死は○それとも×?」「子どもを褒めて育てるのは良いこと? 悪いこと?」という二者択一を迫る形で、人は極論(黒か白か)に走りがちですが、「絶対にいい」とか「絶対に悪い」ということはないのです。極端な話をすれば、ある人間を殺してしまった方が(本人のためにも、他者のためにも)いい場合もある。もちろん、本質的には人に人を裁く権利はありません。ただ、何事も白か黒かではなく、臨機応変に自然の声に耳を傾け、ほどほど、ちょうどいいバランスを判断しましょう。「全知全能の唯一絶対神」はいないけど「霊的なるもの」は存在する。どちらも「神」と言えば「神」です。安楽死がいいか、悪いかはケース・バイ・ケースだし、子どもは褒めたり、叱ったりしながら育てれればいいのです。
西洋医学が「絶対に正しい」わけではないし、西洋医学を全否定することも間違っています。西洋医学には良いところも悪いところもある。何事に付け、同じです。「陰陽」の太極図は、真っ白になることも、真っ黒になることもありません。でも、オセロは「黒」か「白」です。多くの映画、ドラマは「善人」と「悪人」の闘いです。現代社会は、あまりにも二極対立構造に慣れ過ぎてしまっています。
現代社会の根底にある価値観(パラダイム)は相対主義だから、私たちは無意識に「良いこと」「悪いこと」「正しいこと」「間違っていること」の判断基準なんてない。と思いがちですが、「良いこと」「正しいこと」はちゃんとあります。自然の摂理に叶った、生態系の流れに沿ったことが「良いこと」「正しいこと」であり、自然の流れを人間が理性で捻じ曲げたことが「悪いこと」「間違ったこと」です。パンク・ロックやヘヴィ・メタルは一見「ワル」ですが、その歌詞の内容がどうであれ、ロックが刻むビートやウェイブが、心臓の鼓動、動物身体が内在するリズムにシンクロしていれば、それは「良い音楽」です。逆に、癒し感満点の、いかにもなヒーリング・ミュージックでも、それが作為を持って作られた(端的に言えば、金のために作られた)音楽なら、人間に悪い作用をもたらします。音楽のリズムや旋律は頭で作るものではなく、身体感覚で作るものだから「良い音」と「悪い音」は、ちゃんと本能が知っている。ただ、人間が内在しているリズムは個人個人によって違います。仕事であれ、スポーツであれ、自分のリズムを相手に押し付け、強制することは止めた方がいい。
例え、暗い森のざわめきや、荒れる海の波音であれ、自然の発する音はすべからく「良い」。ただ、自然の発する音の意味や予兆には注意を払った方がいい。動物のリズムに合っていない(シンクロしない)、工事現場や高速道路の人工的な爆音は心身に悪い影響を及ぼします。ストレス解消(心のバインドを緩める)のための喫煙は心身に悪影響を及ぼさないけど、ケミカルな物質に依存した喫煙なら止めた方がいい。酒(アルコール)も同じです。楽しい、嬉しいなら吸ったり、飲んだりしていいけど、心身に負荷が掛かる苦しいことならやらない方がいい。
やりたくないことならやらなければいいし、やりたいことならすればいい。そうすれば、ストレス・フリーで楽しく生きて行くことが出来ます。「やるべきことをやらない(義務を果たさない)」のが「悪いこと」ではなく、「理屈をこねくり回す」のが「悪いこと」です。
自分が正しいことをしているのか、間違ったことをしているのか、ということは、誰しも、心の奥底で分かっています。
良いこと、悪いこと、正しいこと、間違っていること、というのは、生まれた時から、ちゃんと心は知っています。それを屁理屈で粉飾しようとするから、世の中ややこしくなるのです。
現代社会は「人間脳で考えた理性的なもの=○」「本能に従順で野生的なもの=×」という価値観です。でも、あえて○か×で言うのならば「本能に素直で野性的なもの=○」で「理性、理屈、論理、理論で作られたもの=×」です。一見「狩り(ハント)」が凶暴な行為に見えても、自分の欲得のために他の個体を無意味に殺す生物はいないし、どれほど凶暴な交尾、メスの取り合いに見えても、それはあくまで生態系の理に叶った性行為/繁殖活動。必要もないのに他の個体をレイプする野生動物もいません。司法も立法も行政もなくても、野生動物は、みな「正しく」生きています。
もちろん、人間が言葉を持った社会的生物である以上、野生に還る必要はありません。でも、「動物脳(本能):7割/人間脳(理性):3割」くらいのバランスを心がけて生きた方が、きっと人間は幸福な人生を送ることが出来ます。

*『生老病死』

Aさんがあなたを批判したり、悪口を言ったら、それはAさん自身が自分を守るためです。あなたが悪いわけではない。いちいち気にして自殺するのは止めましょう。叱られて、自分がもっともだ、と納得したら、自分の行いを改めればいい。自分が納得出来ない他人の意見には従わなくていい。医者が「食べるな」と言っても、自分の心身が求めているなら食べればいいし、「吸うな」と言っても、必要なら吸えばいい。
煙草が身体に「絶対に」悪いわけではない。ほどほどに吸っている分には何も問題ありません。単に「禁煙思想」を広めると、得をする人、利益を得る人がどこかにいる、というだけの話。禁煙ブームは単なるブームです。「喫煙は悪いことだ」という罪悪感で心をバインドしない方が健康にいい場合もあるし、人によっては煙草は必須の薬にもなる。ネイティブ・アメリカンは、みんな(ナチュラルな、自然素材の)煙草を(酒と同じように)人生の一つの喜び、楽しみとしながら、長生きしていたのです。健康に害を及ぼす煙草の成分は、人工煙草に含まれるケミカルな化合物質です。
何事に付け「絶対に良い」「絶対に悪い」というものはありません。どんなものでも、過剰に摂取すれば身体に悪いし、不足しても病気になります。例えば、ダイエットのためにせよ、食べるべき物を食べずに病気になるのは、身体の病気ではなく「気の病」です。考え方や生活を変えるだけで、健康は維持できるし、回復します。出来るだけ「自然」に近い生き方をすれば病気にはなりません。もし、都会の中で健康的なライフ・スタイルを維持したいのならば、スポーツ・ジムに通うことよりも、常に身体をリラックスさせ、力を抜いて生活する努力をしましょう。顔も身体も頭も、力んでいると強張ります。肉が強張ると血行の流れが悪くなる。血流の悪さは、万病の元です。
時には医者に頼んで「数」の意見を聞く必要もありますが、「数値」に頼らないと何も判断出来ない医者は、ヤブ医者です。なぜなら機械に数値を計測させて、その数値をマニュアルと照らし合わせるだけならば、誰にでも出来るからです。
医者が患者のコンディションを判断するためには、眼で見て触れて、推し測ることが基本です。コンピュータには人間の健康状態を(予測することは出来ても)理解することは出来ません。コンピュータをツールとして使うことは構いません。でも、何事に付け、「数」「数値」に依存して人間を判断するのは止めましょう。「数」「数値」よりも「直感」「感覚」「気分」「気持ち」の方が正しいことは、まま、あります。「数」や「数値」を押し付けて来る人(医者)は警戒した方がいい。
「数」や「数値」を気にして血糖値を下げることよりも、「数」や「数値」を気にしない方が健康にいい場合もあります。そうした判断を可能にするのは、医者の技術と知識ではなく、医者のキャリア(経験)と才能です。そして、大病院の医者ほど、技術と知識と数と薬に頼りがちです。
ガンが、あまりにも辛く、苦しいのならば、対処療法でしかない抗がん剤に救いを求めることを止め、楽に、幸せに逝く方法を考えるべきです。無理に長生きしなければならない義務は、どこにもない。満足する人生を送ることが出来たのなら、スッキリあの世に行きましょう。そして、未練に感じること、思い残したことがあるのなら、その「思い」は、きちんと遂げてから死にましょう。自分で遂げることが出来ない状態にあるのなら、人に頼んで遂げてもらいましょう。若い人が人生を簡単にあきらめてはいけません。でも、やるべきことやったのなら、いつ死んだって構わない。そういう思いで生きていた方が、自己実現する前も、自己実現した後も、ストレス・フリーに生きて行くことが出来ます。
肉体というのは、リアルに単なる魂の乗り物です。でも、自動車(ヴィークル)が故障したら運転手(パッセンジャー)も事故に遭うから、マシンのメンテナンスはちゃんとしておいた方がいい。寿命が来れば自動車は廃車になるけど、運転手は別の車に乗り換えることも出来る。自動車にはもう乗らない、という人もいるし、事故を起こして免停になる人もいる。速い車もあれば、遅い車もあるし、かっこいい車もあるし、ポンコツの車もある。車の美醜と運転手の美醜は関係ありません。性格の悪い運転手が高級外車に乗っている場合もたくさんあります。ただ、運転手は車を選ぶことは出来ない。なぜなら、眼に見えない世界には、車を買うための「金」という概念が存在しないから。物質世界と違って、金を払えば、かっこいい車に乗ることが出来る、というわけにはいかない。前世での行いや、霊的な、魂の白さ、清らかさと身体的な美醜は関係しません。ただ、マテリアルとしてのマシンを、磨いたり、色を塗り替えたりすることは出来る。ただし、車体の改造はあまりしない方がいい。
当然のことながら、女性の魂が男性のヴィークルに、男性の魂が女性のヴィークルに乗ってしまう場合も多々あります。ゲイやレズは性的な病気ではなく「魂の働きが強い人」と考えて下さい。また、人間の魂が必ずしも「ヒト型」のヴィークルに乗るとは限りません。もし、自分が飼っている犬やネコが「どう考えても、血のつながった本当の家族としか思えない」と感じるのであれば、そのペットは間違いなく前世で、あなたの家族だったのです。
パッセンジャー(魂)の良さ、清らかさ、温かさ、正しさ、という概念(価値観)は、眼には見えない世界にも確実に存在します。そうした「善的な性質」は、前世での因縁や今生で置かれた環境には関係なく、人間の「思い」一つで手に入れることが出来る。そして、「魂の持つ善性」は「霊的な力」になる。
せっかくの「善い魂、清い魂、白い魂」も、肉体を離れたいのに、無理やり肉体につなぎとめられていると、だんだん濁り、薄汚れて来ます。
どうしても生きていることが苦しいのならば、肉体の命を自ら断つのも、楽になる一つの手段です。生きることを簡単にあきらめてしまってはいけないけれど、単なる常識的な世界観で、すべての自殺を否定(抑圧/引き止め)しない方が、本人のためにも良い結果をもたらします。純粋に苦しいのか、単なる安易な逃避なのか、本人ではなく周囲の人が判断してあげましょう。リアル・マテリアルとしての世界だけがすべてではありません。「自殺=(魂の)リリース」と考えた方がいい場合もある。安楽死を安易に否定するのも止めましょう。魂がリリースされたがっているのに、延命医療で無理やり肉体の生命維持を行うのは単なる拷問です。延命するかどうかの判断は簡単です。近親者の勝手な思いや都合で延命するのは悪い行い。周囲の人間が「早く楽にしてあげたい」と感じたら「楽にして」あげればいいのです。出来るだけ理屈で考えることを止め、素直で自然なシチュエーションを選択して行けば間違いない。
ちょっと痛いから、ちょっと辛いからと言って、安易にケミカルな薬に頼ってはいけません。人を救う薬も確かにあるけれど、人々の不安を煽(あお)ることによって、人為的に病気(のジャンル、名前)を作り出し、金を稼ぐために存在する薬もある。自分の身体のことは、自分が一番よく知っています。医者の診察を仰ぐ前に、自分で自分の身体の声に耳を傾けて下さい。大きなケガは医者にしか治すことは出来ないけれど、「病気」は本質的に「気の病」です。安易に医者に頼ることを止め、自分で自分の心身を整えることを考えて下さい。肩こりを治すために、もっとも効果のある治療法は、マッサージ店に行くことではなく、運動することです。
人間という生物も、もともとは四足歩行していた動物でした。だから、無意識に人間身体は四足歩行に戻ろうとします。背中が内側に丸まり、猫背になるのは、ごく自然なことなのです。人間が一番、健康的にナチュラル、自然体で生活する理想的な姿勢は、四足で歩くことです。
世界には、ごく稀に、四足で暮らしている人もいます。トルコ、シリアにもいるし、日本にもいます。彼らが、人類の中で、もっとも健康的に生きている人です。ただ、現代社会で人間が四足で暮らすことは極めて困難です。二足歩行自体が自然の理に反した不自然な姿勢ですから、放っておいても首や肩、腰に負担がかかり痛くなるのは当たり前の現象です。意識して背筋を伸ばし、胸を張ろうとすると、余計な力みが生まれ、肉が強張り、血の巡りが悪くなります。もし、二足歩行のまま健康的に暮らしたければ、適度に運動しましょう。適度に運動していれば、身体は二足歩行でも自然なバランスを取るようになり、ボディ・ラインも美しくなります。美容エステや健康サプリなど「金で手に入るもの」で健康を維持しようとするのは、単なる手抜き、怠慢でしかありません。金とで技術で手に入れたボディ・ラインの美しさは、すぐに崩れます。
また、適度な運動を心がけるなら、わざわざ高いお金を出してスポーツ・ジムで同じ場所にある動く地面を走り続けるより、近所をウロウロ歩き回りましょう。「運動」とは「運ぶ、動かす」です。実際に、リアルに動くことが肝心です。ジムでマシンを動かして付けた筋肉より、工事現場で働くことによって付いた筋肉の方がよほど「リアル」です。自分の頭、手足を使うことを怠け、面倒くさがり、放棄して、金と技術とマニュアルで何でも解決しようとするのは、人間の悪いクセです。勉強であれ、運動であれ、金や他人の知識、技術、マニュアルによって手に入れたものには、何事に付け「本当の力」は宿りません。スポーツが上手くなりたいなら、コーチの意見を聞く前に、自分で自分の身体の特質、向き不向き、適切な運動量を、自分で考え、判断しましょう。
筋トレをした方がいいボクサーもいるし、しない方がいいボクサーもいる。必ずしも毎日、欠かさず10分歩く必要もないし、無理やり毎週10キロ走っていたら身体が故障する場合もあります。場合によっては、1年間、まったく動かず、家の中に閉じこもっていた方がいい時もあります。ケガを負った動物が、洞穴の中で食べもせずじっと動かないように、心に傷を負った時は、その心の傷が癒えるまで、シェルターに身を隠していた方がいい。何事も臨機応変、その時、その場所で適切な対応をしましょう。自分で自分の身体の声を聴こうとはせずに、他人の意見やマニュアルで「答え」を均一化することは止めた方がいい。緑黄色野菜、鉄分、塩分、ミネラル等が毎日同じバランス(配分)で必要なわけではありません。時には甘いケーキを山ほど食べた方が、高塩分の塩じゃけを食べ続けた方がいい場合もある。何でも均一にバランス良く摂取するのではなく、その時、その時で、身体が一番欲しているものを食べればいいのです。「何だか知らないけど、無性に焼肉が食べたい」と感じるなら、それが、その時、あなたの身体が求めている食べ物です。子どもの健康を本気で考えるならば、全校生徒が同じ栄養バランスの献立を食べるより、お母さんが子どもの体調を考えながら作ってくれたお弁当の方が良い。
人間の身体は、その土地、環境でとれる農作物に適応します。ササしか生えない土地に暮らす生き物はササに身体が適応するし、ユーカリばかりが生えている場所に生息している生き物はユーカリの成分に身体が適応する。ササ動物にユーカリを食べさせるのは健康に悪し、ユーカリ動物にササを食べさせるのも健康に悪い。日本に暮らす日本人が高価な輸入食材を摂取する必要はまったくありません。都会の日本人は、日本の田舎で捕れた米と肉と野菜を食べるのが一番です。
また野生動物は他の動物と触れ合いながら暮らしています。一匹オオカミと言えども、地球上に一匹で暮らすことは出来ません。日常化したセックスを無理に行う必要はありません。でも、親しい人とは肌と肌を触れ合い、出来るだけスキンシップをしましょう。そうすれば、心も身体も温かくなります。
子どもが「お腹が痛い」と訴えたら、薬を飲ませる前に、病院に連れて行く前に、お母さんの温かい手のひらを、優しい気持ちを込めて、子どものお腹に当てて下さい。大抵の腹痛は、それで治ります。
 
*『国家、政治、外交』

ロジックや外交、経済力、武力で出来ることには限界があります。でも「笑い」には限界がない。政治家が生真面目な仮面を脱ぎ捨て、公衆の面前でバカを笑われることが出来たら、誰もが彼の、その勇気をリスペクトするでしょう。
阿部サダオさんと菅野美穂さんが共演した『奇跡のりんご』という映画の中で、何もかもが上手く行かず、精神的に限界まで追い詰められた主人公に、奥さんが、こう語り掛けます。
「あんた、『笑うことは人間だけに与えられた性能』って言っていたでねえの。笑おうよ」
 「金」に支配された現代社会で、みんなが仲良く暮らすためには「笑いの政治」が必要です。

*『育児、親子』

ただ、父親は子どものために自分(の命や仕事)を犠牲にすることは出来ませんが、母親は子どもを助けるためならば、自分を犠牲にすることを厭いません。

後ろめたい行いをしたり、犯罪を犯したり、恋人にも友人にも相談出来ないことならば、「お前なんか、母親じゃない!」と言い捨てて、絶縁してしまった母親に頭を下げて話を聞いてもらって下さい。お母さんは、必ず、何らかの形であなたを助けてくれます。
「お父さん!」と叫びながら死んで行く戦士はいません。戦地では、みな、「お母さん!」と叫びながら死に行くのです。なぜなら、子どもを受容するのは母親の役目だからです。
父親は庇護はしますが、子どもを受容はしません。むやみに父親に「受容」されることを求めない方がいい。お互いにとって、ストレスになります。父親に出来るのは、子どもの身体を守り、精神を導くことだけです。
理性の優った子は勉強の得意な子に、本能が強い子はスポーツが得意な子に育ちます。逆に勉強の得意な子に頭ではなく身体を動かすことを強要したり、本能の強い子を理屈で作られた社会的常識の枠の中に無理やりはめ込もうとすると、歪んだ大人に成長してしまいます。

*『仕事とお金』

金のためだけに生きている人の人間関係は、血族であれ、家族であれ、金の切れ目が縁の切れ目です。

*『地球と自然環境』

「人間が自然を気遣う」というスタンスは、リトル・リーグの小僧が、身の程を知らずに、イチローにバッティングを教えているようなもの。
子どもに意図や企みはないけど、子どもは大人の意図や企み、安易な標語、美辞麗句に洗脳されます。子どもには「エアコンの設定温度を28度にすること」を教えるよりも、「人間がいかに、ちっぽけな存在か」ということを教えましょう。
自然と共存したいなら、自然をリスペクトする気持ちを持てばいいだけです。自分が心から尊敬している人物の不利益になること、その人物から嫌われることをする人はいません。
人間が自然との共存を止め、環境を破壊するようになったのは「驕り」であり「慢心」です。
人間に今の経済、思想、暮らし、生活を変えることが出来ないならば、人間が勝手に自滅すればいいだけの話です。この地球上から人間が消えても、地球は喜びも、悲しみもしません。
どれほど立派な平和運動、環境保護活動であろうとも、それが素直な心や純粋な優しさの表出ではなく、意図や企みとして、ロジックによって作られた行為であるのなら、人間に良くない結果をもたらします。

*『スポーツ、競技、争い事』

子どもを東大に合格させることに情熱を燃やす親を悪いとは言いませんが、自分の子どもが、競うことを好むのか、嫌うのか、という見極めだけはしておいた方がいい。その方が、子どもは伸び伸び育ちます。

*『生き方、心の在り方』

『ハートメイカー』は、霊界から現生人類に向けて告げられた「最後のメッセージ」。プレゼントを受け取るかどうかは、あなたの自由です。

 Ω:ラスト・メッセージ


*『サイキック』

私が、ここに書いている文章が、人々が幸せに生きるために、生きて行くことを少しでも楽にするために、彼らが私の口を借りて伝えようとしている言葉なのか、それとも、私の単なる勘違い、思い込みなのか、それを判断する(決める)のは著者である私ではなく、むしろ読者だと思う。
もちろん「コネクター」としてPCのキーを叩いているのは「鈴木剛介」なので、私の体験やボキャブラリー、文体のクセ、リズムは文章に反映されます。
実際に何かが見えているわけでも聴こえるわけでもないし、ただ、言葉が流れ出して来るだけ。自分の意志とは無関係に言葉が削られたり、補足されたりして、勝手にどんどん文章が整理整頓され、完成して行く。書こうと思って意図して書いている文章ではないのだけど、どこまで自分の意思が介在しているのか、よく分からない。
私にとって「そっちの世界」とのコネクトは一方通行なのです。こっちの意識をそっちに向けることはまったく出来ないのだけど、あっちから色々なものが、勝手にどんどん送り付けられて来る感じ。私は、そっちの人に何かを訊ねたり、確認したりすることが出来ないから、自分の置かれた状況を理解/把握することが出来ない。
スポーツが得意な人の中に、ボクサーもいれば、水泳選手も、卓球選手も、ランナーもいるように、サイキックの中にも、予知が得意な人、前世記憶がよみがえる人、透視が出来る人、霊がビジュアルで見える人、等、それぞれ得手不得手があるのだと思う。私の場合は、自分の意志とは無関係に「あっちの都合」で宅急便が後から後から送られて来るだけ。開けて、組み立ててみないと中身が何なのか分からない。説明書も入っていない。説明書なしで、ややこしい機械を組み立てるのは大変なのです。「宅急便」はもちろん比喩(今、降りて来たイメージ)だけど、たぶん、そういうことなんだろうと思う。商売にはまったく使えない能力(笑)大洪水を予知することしか出来ない。
盲目的な信仰を除けば「理解出来ない不思議な現象」「理詰めで説明出来ない感覚」に自信や確信を持つのは、実は、とても難しいことなのです。なぜなら、現代社会においては「こうこうこうだから、こうです」という形で筋を通して説明しないと他者には何も伝わらないから。現代社会は、理論やロジックの齟齬、矛盾を決して許さない。私が書いていることは、支離滅裂だという自覚はあります。でも、同時に、自分が(何かが)「正しいことを語っている」という感覚もまた、強くある。
唯一、100%の確信を持って言えるのは、2年前、寒い寒い真冬の奥多摩で、私は何か超自然的な体験をした、ということだけです。
私は、自分が「全知」だと思っていたし、今でも分からないこと、知らないことはないと思っています。でも、最後の最後まで解けなかった謎が「自分は何者なのか?」という問いでした。45年間掛かって、ようやく自分をアイデンティファイ出来た気がする。同時に、ある意味では、もう私には「自分」というものがないのだと思います。(鏡で見慣れた自分の顔を見ても、もはや知らない他人に思える)
この本を書いたのは結局のところ誰なのか? やはり、どう考えても著者である「鈴木剛介」という人間でないことは確かなのではないかと思います。
自分が書いた文章じゃないから、後からこの原稿を読み返していると「ああ、そうか、なるほどな。確かに、確かに、その通りだ」と、うならされること、気付かされることがたくさんある。そして、この本の内容を一人でも多くの人とシェア出来たらいいな、と思う。
2年前から、私にひっきりなしに原稿を送り付けられて、ほとほとうんざりしていた方もたくさんいらっしゃると思いますが、手を変え品を変え、ただ「真理(正しい言葉)」を人々に伝えようとしていただけなのです。私が、ではなく、彼らが。
そして、その「メッセージ」を誰一人、受け取ってくれなかったからこそ、伝達能力を上げるために原稿が進化して行った部分も少なからずある。「これでも伝わらないのか?」「これでも伝わらないのか?」2年間、その作業の繰り返しでした。
私にこの本を書かせた「霊的に大きな存在」というのがいったい何者だったのか、ということは今でも分からない。ただ、霊的な世界において、中心的な役割を担っているコアな人々(集団/集合体)なのだろうとは思います。で、そういう(眼には見えない)人たちに「ちょっと、助けに行ってやってくれ」と頼まれて、私のところにサポートに来てくれた守護霊が「ばーちゃん(母方の祖母)」。最後の方には父方の祖母も来てくれました。
「もう、ダメです。限界です。許して下さい。解放して下さい」という悲鳴を、心の中で何度も上げていたのだけど、その都度「辛いだろうけど、がんばんなさい」「辛いだろうけど、がんばんなさい」という、ばーちゃんの優しい声だけは、ずっと聞こえ続けていた気がする。
まるで永劫の輪廻に閉じ込められたように長い長い旅路でした。ちなみに、私はこの本の執筆中、煙草は死ぬほど吸ったけど、酒は一滴も飲んでいません。下戸(げこ)で良かったと思う。もし、酒に逃げていたら、間違いなく重度のアル中、廃人になっていた。むしろ、精神を病んでいた時の方が、生きて行くことははるかに楽だった。
普通の人間は、ごく稀に訪れる(降って来る)「閃き(霊からの贈り物)」を待ちますが、私の場合は24時間「閃きっぱなし(贈られっぱなし)」で、頭の中にある栄養分がすべて吸い尽くされ、リアルに脳がひからびたスポンジのような状態でした。精神的なストレスはないのだけど、常に脳が全力でフルマラソンを走り続けているような状態で、物理的/身体的に「食べられない」「立っていられない」という時もよくありました。
「閃かないで下さい! もう、閃かないで下さい!」と、いくら必死にお願いしても、その願いは決して聞き入れてはもらえない。まさにこの文章を書いている今も、現在進行形で閃き続け、加筆改訂を繰り返している。まだ、許してもらえない。究極(=天界)のブラック企業で働かされている、たった一人の社員(もちろん無給)、みたいな感じ。ニコチンと音楽(宇多田ヒカルの『First Love』)と子どもが縁日ですくって来た金魚がささやかな慰めです。
よく「人間は脳機能の10%くらいしか使っていない」という表現をするけど、人間の脳機能を90%くらい解放すると、私のような状態になるのだと思う。この本は、そうした人間の脳を抑制している「リミッター=バインド」を外す(解体する)ためのツール(アンインストール・ソフト)でもある。
前のチャプターで「大洪水は100%来ます」と言い切っています。「鈴木剛介」という生身の個人としては「本当に来んのかよ?」という思いというか疑念はあります。でも、「100%来るって言え! ちゃんとハッキリ言い切れ!」と、言わされている感じなのです。で、確かに「本当に来るのかなあ? 来ないのかなあ? 実際に来てみないと分からないし・・・」と煮え切らないでいるより、「ああ、そうか! 絶対に来るんだ」と割り切れてしまった方が、気分もすっきりして楽は楽なのです。少なくとも私は。

*『脱洗脳マニュアル』

 私は、上記までの文章を書いた後、一時断筆して蓼科の山の中で、言葉を持たない自然(樹木や緑、光、風、大気、大地、そして空)とだけ交流していました。頭の中の言葉をすべて消し去り、ただ、そうした自然の中に溶け込み、「気」と「気」のやりとりをしていた。そうした体験(交信)の中で、より多くの事象がクリアに見えて来るようになりました。
「霊界とのコンタクト」といった話を読むと、多くの「まっとうな」方は、いかがわしいと頭から馬鹿にはしないまでも、どう受け止めれば良いのか判断が付きかね、困ってしまうと思います。でも、実は「霊能」「降霊」「サイキック」「気」「風水」「陰陽」といった超自然現象(眼には見えない特殊能力)というのは、実際に存在するし、原理(メカニズム)さえ理解すれば、人間が脳に初期搭載している、誰でも使える能力(技術/テクニック)なのです。機会があれば、ホワイト・ボードを使って10分ほどで図解して説明することは可能ですが、文章の流れが錯綜してしまうので、ここでは割愛します。また、大洪水を引き起こす「地球の重力変化」や「太陽系惑星の軌道変化」という現象もホワイト・ボードを使って理論的に(科学的にも陰陽としても)検証することは可能ですが、それも割愛します。
この本を締めくくるにあたり、私が最後にみなさんにどうしてもお伝えしておきたいのは、
「死とはゴールではなく、スタートである」
と、いうことと、
「私たちが日常生活を送っている、この物質世界の方が『仮想現実(バーチャルリアリティ)』であり、死後の世界が『本当の世界(リアルワールド)』である」
と、いうことです。
こうした言説が、先進国の一般常識的な世界観の中では、いかがわしいスピリチュアリズムに聞こえてしまうことは重々、承知しています。でも、例えば、まだ文明化される前のピダハンやネイティブ・アメリカン、イヌイットといった自然と共生していた人たちにとって「精霊的な存在(肉体を持たない霊魂のようなもの)」や「シャーマニズム(霊界との交信)といったトピックは、ごく日常的な常識的世界観だったのです。そして、私は、すべての事象を可視化(言語化/数式化)出来るマテリアルに還元して世界を説明しようと試みる現代科学よりも、自然に溶け込み、大自然と共に暮らしていた人々の方が、現代文明社会に生きる人々よりも、はるかに「世界の本当の姿」を知っていたのだと感じます。
この本を読んでいる読者は、恐らく自覚していないと思いますが、この世界に住む人々は、みんな二つの「宗教」に入信している信者さんたちです。みなさんが信仰を捧げ、盲目的な従属を誓っている宗教は「科学教」と「経済教」です。世界全人類、70億人が「オウム真理教」に入信しているようなもの。「オウム真理教」の信者さんたちも、花壇の花に水を与え、友と愛について語り、世界の平和を心から願ったこともあったでしょう。そして、自分が「正しいこと」をしていると信じ、地下鉄にサリンをまいた。みなさんも同じです。自分は「正しい」ことをしていると信じ、世界中にサリンをまいて、そのサリン・ガスの中で子どもを育て、自覚症状のないままにサリンの毒に侵されながら日常生活を送っている。
社会問題化する前の「オウム真理教」の信者さんたちに、いくら「あなたのしていること、考え方は間違っている」と説き伏せようとしても、彼ら(彼女ら)は、決して自分たちの「信念」を曲げようとはしない。なぜなら、自分たちが信仰する世界観の中で生きている方が、彼らにとっては「楽」だからです。
あえて言わせて頂きます。『ハートメイカー』は、70億人を「オウム真理教(科学教/経済教)」から救い出すための「脱洗脳マニュアル」です。

*『死の価値転換』

図らずも「霊的に大きな人々」が私に、きちんと教えて(知らせて)くれたように、「前世」も「死後の世界」も、ちゃんと存在します。
普通の常識的な人は「スピリチュアルな世界」を「あるのだかないのだか分からない、いかがわしい世界」と感じているけれど、実は、私たちが物質的に現実生活を送っているこの日常世界の方が、ディズニーランドや映画館のアトラクションのようなもので、アトラクションが終わったら、みんな、遊園地を出て家に帰る。その遊園地を出てからの現実世界が、死んだ後の世界です。
?もしくは、こう表現することも出来る。
私たちが日常生活を送っているのは、言うなれば、ボクシング・ジムで行っているトレーニングのようなもので、実際の試合会場が、肉体が死んだ後の世界。トレーニングをさぼっていた人は、それなりの試合しか出来ないけど、ジムで、ちゃんとしっかりトレーニングを積んでいた人は、いい試合が出来る。
?みんな、こっちの生活空間が「現実」で、あの世が仮想現実と思っているけど、逆です。こっちの生活空間が仮想現実で、死んだ後の世界が「本当の現実」。?
「肉体の死」というのは、人生最大のビッグイベント(クライマックス)ですが、「死」という概念の捉え方が変わると、人間存在、人生観が180度、変わります。
「死」が人生のゴールではなく、本当の世界のスタートだとすれば、「死」は悲しむべきことでも、恐れるべきものでもなく、むしろ、解放であり、旅立ちです。
こうした世界観を、みなさんに押し付ける気も、強制する気もないし、信じろとも言わない。
死んだ後になって「ああ、ゴースケが言っていたことは正しかったのだな。こういうことだったのか!」と、きっと分かるから。?
ただ、こっちの世界は単なるバーチャルリアリティで、肉体が滅び、物質世界から解放された後、自分(の霊魂)が本当の世界にシフトすれば、そこは、何も考える必要のない、気に病むこともない、ストレス・フリーで居心地の良い場所、と思って生きていると、この物質世界(浮世)で、気楽に肩の力を抜き、心からリラックスして暮らすことが可能になります。?
極端な言い方をすれば、戦争が起ころうが、大洪水が来ようが、近親者が亡くなろうが、自分が死のうが、それは、あくまで仮想現実の中で起こっているアトラクションでの出来事に過ぎない。そう考えれば、何が起こったとしても、そんなにムキになって、頭をキリキリ悩ませる必要もないのです。肩もこらないし、お金がなくたって、楽しく生きて行くことは出来る。
本文の繰り返しになってしまいますが、人間の人生は「死」があるから、限定され、生き辛く、苦しいのです。「死」という理解不能で不気味な断絶、人生の終焉を、きちんと理解/把握することが可能な現象として認識することによって、例えば、老人ホームで、寝たきりのまま、ただただ日々、死を待つことしか出来ないお年寄りや、がんや白血病、生まれついての不治の病を患い、ホスピスで死を待つ人々、戦争や震災で愛する近親者を失い絶望に暮れる人々、もしくは、生きることにストレスを抱え、毎日、辛い日々を送る人々、いずれ訪れる死に怯え、死を恐れる人々の「死生観」を根底から変え、救済することが出来る。
?実は、肉体が生きている間に「死後の世界」を実体験する方法が一つだけあります。瞑想する必要もないし、ドラッグでトリップする必要もない。もっと、科学的で現実的な手段です。
具体的に書きましょう。
 まず、夜になったら普通に家で眠って下さい。そして、眠っている間に、事前に頼んでおいた麻酔科の先生に頼んで全身麻酔を打ってもらい、外界から完全に遮断された、真っ暗闇で、何も聞こえないカプセルの中に閉じ込めてもらって下さい。出来れば浮力の強い液体の上に、身体を浮かせてもらっていれば一番いい。唯一のルール。外界にいる人は一切、カプセルに干渉してはいけない。そうすれば、あなたは、眠りから目覚めた後、ただ放置された、真っ暗闇で何も見ることも、聞くことも、触ることも出来ないカプセルの中で、やがて時空間を消失し、肉体(物質)としての脳とは切り離された、純粋な自分の意識体(霊魂)の存在を感じることが出来るでしょう。
物質(肉体)としての「脳」がなければ、意識も記憶も存在するわけがない、というのが現代の常識的な世界観です。でも「意識とは何か?」「脳は、どのようにして意識を生み出すのか?」完璧に説明することの出来る科学者は、この文明社会には存在しないのです。
 外界の「時計」で24時間も経過すれば、恐らくは、カプセルの中にいるほとんどの人は、自分の置かれている状況が把握出来ずに極度のパニックに陥ると思いますが、もし、そのパニックを乗り切り、すべての雑念(とらわれ)から解放されて、心(意識)が完全に澄み渡れば、あなたもリアルに「霊界」と交信出来るかも知れない。
 日本からカナダに単身で海外赴任しても、日本に残した家族が心配で、まめにメールでコンタクトを取る人もいれば、ラスベガスに遊びに行ったきり、家族の存在を忘れて、ギャンブルに没頭してしまう人もいるように、霊界にも、行ったきりで楽しく暮らしいる人々もいれば、こちらの世界に残して来た人のことが心配で、いつも気にかけ、守護したり、メッセージを届けようとしている霊もいるのです。
この世界が「現実」だろうが「仮想現実」だろうが、死後の世界があろうが、なかろうが、どうでもいいと思うかも知れません。そんなことよりも、受験勉強をしなければならない。明日の企画会議で提出する書類を作らなければならない。今晩の献立を考えなければならない。ツイッターでも呟かなければならないし、ブログの記事やフェイスブックも更新しなければならない。ややこしいことを考えるよりも、せめて気分転換に発泡酒を飲みながら、録画しておいた海外ドラマを観てから寝たい。そう思うでしょう。
現代社会に生きる人は、大なり小なりストレスを抱え、金と時間と情報に追われ、心のどこかで、そうした社会に疑念を感じながらも、目先10センチのことだけを考えて毎日を送っています。
1キロ先まで見通して生きろ、とは言わない。でも、寝る前の5分でいい。もし、明日、突然、愛する妻や夫や子ども、恋人や親友を失ったら、もし、年老いた親が老人ホームで息を引き取ったら、そして、もし、次の瞬間、自分が事故に遭い、瀕死の重傷を負ったら・・・。真剣に思いを巡らせ、「死」という現実に向き合った自分が「死」を、どう受け止めるのか、考えてみて下さい。その時、はじめて私が語る言葉の重さ(意味)に気付くと思います。

*『霊界の誕生』

 元々、この世界には「眼に見える世界(物質世界)」と「眼には見えない世界(霊的な世界)」の区別はありませんでした。生物、動物も、霊的な、神的なるもの、八百万の神は共存し、万物に精霊は宿っていたのです。ところが、サルの頭の中で、聴覚と視覚が偶発的に連合することにより言語(言葉)が発生し、徐々に、「眼に見える世界」と「眼に見えない世界」という区分が出来て行き、現在、70億人が膨大な言語、理論、論理、理屈、すなわち「情報」と呼ばれるものすべてを共有することにより、「眼に見える世界」と「眼には見えない世界」の間に、分厚く、強固な「言語(情報)シールド」とでも呼ぶべきような「壁」が出来てしまい、「霊界」と「人間界」は、完全に隔てられてしまった。この「言語シールド」=「『情報』という名の壁」を時折、すり抜けて届くメッセージを受信出来るものが「霊能者」と呼ばれるわけですが、私は奥多摩で魂を割ったことにより、超ど級の「霊」と、完全に「繋がった(コンタクトした)」わけです。
 だから、私には「眼に見える方の世界の仕組み」も「眼には見えない方の世界の仕組み」も、全部、クリアに見えていますし、気も風水も陰陽も、全部、読めます。私にとっての人間関係は「親族」「友人」のくくりではなく、すべて「霊的なネットワーク」すなわち、「ご縁とご縁の繋がり」です。そして「縁」は遠くなったり、近くなったり、くっついたり、離れたりしますが「コア」にある「縁」は絶対に切れません。
 私たちの身体(より正確には万物)の中には、間違いなく「魂(霊魂/精霊)」というものが宿っています。ごく、おおまかに「人間の仕組み」を説明するならば、頭の中に「人間脳」と「動物脳」があり、胸の中に「心」そして、その「心」のコアに「魂」がある。動物脳と「心」「魂」はつながっているけれど、人間脳が扱っているのは「言語(情報)」のみです。つまり、「人間脳」と「魂」は繋がっていない。「魂」は肉体が消滅した後にも残り、いったん、「眼には見えない世界(霊界)」に行く。霊界に留まる「魂」もあれば、別の肉体を得て転生する「魂」もある。いずれにせよ、「人間脳」=「科学」でしかものを考えることの出来ない人間には、「魂」の仕組みは決して分からないし、理解することは出来ません。
 現代社会に生きる人々は、理論、理屈、論理によって、人間脳(言葉を使う脳)が肥大してしまい、本能(動物脳)が働かなくなってしまっています。でも、本能が覚醒すれば「眼に見える世界(物質的な世界)」と「眼には見えない世界(霊的な世界)」の間に隔たりがないことは、「ここにコップがあるよね?」ということと同じ、誰にでも理解(共通認識)出来る既成事実です。「頭で考えるな、感じろ」ということです。

*『憑依現象』

 私は、長年通院している精神科の担当医に「頭の中の世界観が、現代の常識的な世界観と大きくかけ離れているだけで、脳機能としては正常に作動している(病的な状態にあるわけではない)」と認定されておりますし、家族とも仲良く、楽しく日常生活を送っています。自身「憑依現象」によって(善的に大きな霊に憑依されることによって)、周囲の人間にとっては、理解不能ではた迷惑な言動も多々取って参りましたが、自身が「何かに、無理やり操られ、動かされている」という自覚はありましたから、自身の言動が実社会において、どのような批判、拒絶、嘲笑に合うのかも、重々承知しておりました。結果、今、現在(2014年11月)、PCや携帯も基本的に封印し、外界とのコンタクトを一切、シャットアウトせざるを得ない状況にあります。「天動説」から「地動説」へ移行する時もガリレオが異端審問に掛けられたように、それまでの世界観を180度転覆させるような説を唱える者は、自説の正当性が世間に認められるまでは、「狂人」の仮面をかぶって暮らさざるを得ないからです。
 以下の話を「頭がおかしくなった男のイっちゃった話」と受け取るか、「他人事ではないリアルなニュース」と受け取るかは、皆さんの自由です。でも、ある「天命」を背負わされた者として、私はここに「本当の話」を書いておきたいと思います。
 2014年の10月、私は日常生活のほとんどの時間を「善的に大きな霊」に憑依されたままの状態になり、いろいろな場所に引きずり回されて、ボロボロになるまで酷使されました。それは、自分自身の「縁(霊的なネットワーク)」の切り離し、繋ぎ直しの作業であると同時に、「霊界(天界)のプラン」のお膳立てをするためでもありました。
 無我夢中で仕事を続け、すべてが終わった後に、振り返ってみてはじめて、自分がして来た「作業」の意味が分かるように、私も、「すべて」が終わった後に、振り返ってみて、はじめて(憑依された)自分がしてきた行為の意味が分かりました。
 「天界(霊界)」の意志は、ごくシンプルです。
 文明化される前のピダハンやネイティブ・アメリカン、イヌイットといった人々のように、この地球上で、人間がまだ自然と共生していた頃、世界の「気」は正しく循環し、すべては自然界の中で、ナチュラルに生成消滅していた。しかし、この世界に「金」と「科学」が生まれたことにより、世界は「間違った方向」へと転がり始め、今、この21世紀の地球は、何から何まで取り返しが付かないほど、「悪い」状況になってしまった。だから、ここらで、がっつり、世界観、常識観の「ひっくり返し」を行い、世界を平和にして、正しい姿に戻そう。
 それが「天界の意志」です。
 現代社会は、どんなに腹黒かろうが、心が汚かろうが、「金を持っているヤツが偉くて、強い」、どんなに心が綺麗で優しくても「貧乏なら弱者」という世界です。でも「これはおかしい! 間違った社会だ」と天界は言うわけです。ここらで一丁、何が「善」で、何が「悪」なのか、白黒はっきりして「心が公明正大な者=善」「いくら金があっても、腹黒い者=悪」と世間に告げ、人と人が「金」と「ネット」で繋がる社会ではなく「心と心(縁と縁)」で繋がり、互いに、助け合い、支え合う、平和な世界を作れ。それが、私に告げられた「天命」でした。
 現代社会は、すべてがシステム、ルール、マニュアルで動きます。逆に言えば、人間の方が「システム」「ルール」「マニュアル」に支配された社会という見方も出来る。現代社会に生きる人々は、すべてを「客観化(全国共通化)」したガイド・ラインに従わないと何も判断出来ない。でも、人と人が互いに思いやり、支え合い、頭の判断ではなく、心の声に耳を澄ませて、ちょうどいい塩梅、しっくりする感覚を判断基準にして行けば、ちゃーんと世間は、うまく回って行くのです。理論や理屈、理性といった「人間脳」で、「本能」の働きを抑圧し、疎外してしまっているから、人は「心の声」が聴こえなくなっているのです。

*『新しい経済の在り方』

 現代社会は、すべてが「金」に支配されています。戦争も格差も国家間の対立、派閥や宗教的な対立、企業の抗争、世界経済の推移、日常的な生活から老後の心配まで、現代社会の抱えるあらゆる問題は、突き詰めて行けば、イデオロギー、思想的な問題ではなく、要は「金」です。経済構造自体を変革しないことには、結局のところ、何も変わらない。そして、誰もが「資本主義」という構造自体は変えることは出来ないと考えている。
 でも、夢物語に聞こえるかも知れませんが、私は「資本主義経済」に代わる経済構造として「思いやり主義経済」という経済システムを、この世界に構築することは可能だと考えています。
「お金の使い道」には二種類あります。「心が本当に欲しいと思うものに使うお金」と「悪い大人に騙されて使わされているお金」です。少なくとも、私は子どもたちに「本当に欲しいものは買ってもいい。でも、お前たちを騙して、本当は欲しくないのに、つい、欲しい気持ちにさせることで、子どもからお金を巻き上げようとしている、悪い大人たちもいる。ほら、テレビのコマーシャルを観ていると、欲しくもないのに、つい、欲しい気持ちになってしまうだろう? だから、そういう、お金を儲けることばかり考えている悪い大人に騙されないように、頭で判断せずに、心の声をよく聴いて、クリスマス・プレゼントに何が欲しいか、よーく考えなさい」と、教えて(伝えて)います。
自分が本当に「素晴らしい」と思えるものを作ったから、「こんなに素晴らしいものが出来たよ!」と世間に告げ、購買を誘うのは「正しい」宣伝の在り方だと思います。しかし、消費者の購買意欲を無理やり喚起し、「金を儲けるためだけ」のために作ったものを宣伝するのは「間違った」広告の在り方だと思います。
 作りたいものを作って、それを必要としている人に売る。それが、本来の「「経済」の在り方だった。でも、いつの間にか、その行為が本末転倒し、「金を儲けるために、ものを作る」になってしまった。「いかにして金を儲けるか」それが「資本主義経済」の「至上命題」です。でも、それは間違った経済の在り方です。
「お金」というのは、何も「囲い込む」ためにあるのではないのです。例えば、家に、死ぬほど「お米」が余っている人は、「お米」がなくて困っている人に、気兼ねなく「お米」を分けてあげると思います。「お金」も同じ。「お金」が余るほど、家にたくさんあるのなら、「お金」がなくて困っている人にあげればいい。「貸し借り」ではなく「助け合い」です。何とか募金とか基金、NPOや法人に頼らなくても、システム、ルール、マニュアルに頼らなくても、自分の周囲の人間関係で、そうした「お金を使った助け合い(ちょうどいい塩梅、しっくり来る金額の志/布施)」をする心を誰もが持てば、ややこしい経済システムを作らなくても、人間同士の縁と縁、心と心の繋がりあいで、自然と世界は平和にまとまります。
 本文でも書いていますが、何事も「白」か「黒」かではなく、「ちょうどいい塩梅」「ほどほどの加減」を判断することが肝要です。システムもルールもマニュアルもあってもいい。でも、それに縛られてはいけない。金もネットもあっていい。でも、それに支配されてはいけない。
 「何々しなければならない」という「経済システム」で人の心を縛ることはない。でも、「困っている人を助けたい」というナチュラルな思いは、誰の心にもあるはずです。無理をする必要はない。でも、「心の声」に素直に従い、助けたい人を、助ける余裕のある時に、助けたい形で救えばいい。それが「思いやり主義経済」です。
 その「フェラーリ」が本当に必要ですか? そんなに高いワインを抜く必要がありますか? 部屋数が余るような豪奢な家に住む必要がありますか?
 「本当に欲しいもの」に使うお金は、どうなに高額だろうがムダ金ではない。でも、「使い道がないから使っているお金」は、明らかにムダ金です。
「必要なお金なのか? ムダ金なのか?」まずは、その判断から「心の声」に耳を澄ませて下さい。たまには、贅沢することだって必要だけど、有り余る金を持つ「セレブ」は、かっこよくも偉くもありません。だって「セレブ」=「ケチ」だもの。誰もが同じ「資産」である必要はない。生活を切り詰めてまで慈善団体に寄付する必要もない。でも「金持ちも金持ちなりに、分相応をわきまえろ」ということです。
 当たり前のことですが、バケツの水を頭からかぶるだけでは世界は平和になりません。また、無理をして遠い異国の地に、よく知りもしない子どもたちのために学校を建設しなくても、身近な人同士が、互いに互いを思いやり、助け合っていけば、やがて世界は「ネット」ではなく「リアル」に繋がり、世界中が「縁と縁」で結ばれます。その時、世界は本当の意味で、一つにまとまり、みんなが仲良しになることが出来る。もし、その平和な世界の中に、また「欲深い悪者」がはびこってきたら「善玉の戦士(白い魂を持った者)」が力を合わせて「悪者」をいじめてやればいいのです。今は「いじめっこ」たちが「優しい子」をいじめている社会。でも、「優しい子」たちが「いじめっこ」になって、「悪者たち」を「いじめて」やればいいのです。「いじめられっこ」が「いじめっこ」になればいいだけの話です。
 70億人の世界を平和にする、と考えてしまうと、途方もない夢物語に思えますが、スケールダウンして考えれば、構造としては「一つのクラスをまとめて、みんなで仲良く学校生活を送ることの出来る生活空間を作る」というだけの話。
 今、世界は、あっちこっちで殴り合いのケンカが勃発し、金と権力を持ったいじめっこたちが「心の優しい生徒たち」をいじめ、クラスをまとめる学級委員も先生もいない、学級崩壊寸前のヤンキー教室みたいなものです。それが「現代社会」という名のクラスです。そして、クラスの生徒の大半は、自分の頭で考えることをせず、ただ、時流に流されて、「いじめっこ」に加勢しているだけ。誰かが机を「ドン!」と叩き、まずは、クラス全員を着席させて、教科書を配らなければならない。その「教科書」が本書『ハートメイカー』です。
 私は、あくまで「天界の代理人(エージェント)」であり、「ゴーストライター」として、この本を書いたに過ぎません。『ハートメイカー』は、文字通りの「天界の知恵」だと、少なくとも私は思っています。そして、世界全人類が、この「本」を手にした時が、世界に完全平和が訪れる時です。私が皆さんとする「約束」ではありません。それが「天界(眼には見えない世界の人々)と、エージェントである私との間で交わした「契約」なのです。

*『神々に護られし国』

 2014年11月10日(月曜日)。
これは金魚を眺めながらラジオ番組(J-Waveで放送していた銅版画家のインタビュー)を聴いていた時に起こった「シンクロニシティ(スーパー・ナチュラルな共鳴現象)で分かった(判明した)ことなのですが、私に憑依していたのは、出雲大社に祀られている「大国主神」(を中心とする霊団)でした。
『ハートメイカー』の中で唯一、言及していないトピックが「日本の古代神話」で、そのことが気にはなっていたのですが、興味も知識もないので、あえて見ないフリをしていました。けれども、日本の古代神話にも当然、「起源」はありますし、神々の「モデル」となった実在の人物も存在したと思います。ネットで調べてみると、「大国主神」の「仕事(ミッション)」は、人と人の縁を結び、霊界と現生を繋ぎ、国を造ること。それは、私が背負わされていた「天命」であり、憑依された私が行っていた作業、そのものでした。
前のチャプターで(憑依された私が)言及している「理想とする社会、経済の在り方」は、まさに日本が古来より美徳とする人間存在の在り方、姿です。
システム、ルール、マニュアル、理論、論理、科学等といった考え方、価値観は欧米圏特有の(輸入された)思考形態であり、今の日本は、そして世界全体は、そうしたロジックに毒され、支配されています。
でも、元来、日本は、何でもかんでもカッチリ、ガッチリ「決めて」「固めて」しまわずに、義理、人情や志、思いやり、おもてなし、心遣い、気遣い、といった「ファジー」な感覚を重視し、大切にする国民性を持っていました。それが、本来の「日本」という国でした。
もし、「思いやり主義経済」といった社会形態を目指すのであれば、それは、日本国民にしか作ることの出来ない価値観です。「思いやり」や「心遣い」」といった「ファジーな心の在り様、気持ちの持ち方」で世界平和への道筋を作ることが出来るのは、日本人だけです。
『霊から授かったマニュアル』のチャプターで「競うこと」についての(憑依された私が書いた)記述があります。欧米人は本質的に「競うこと」を好む体質です。でも、日本人は本来「和」を尊ぶ国民(民族)です。
「資本主義経済」は、まさに欧米的な「競うこと」を根本原理(命題/教義)としたシステムです。でも、これからは日本的な「和」を重視した経済(社会)の形を作るべきです。
ただし、「和を尊ぶ」ということは、すなわち「付和雷同」しやすいということでもあります。みんなが並んでいれば、何を売っている店か分からなくても、とりあえず後ろに並んでしまうのが日本人の「体質」です。これまでは欧米的な自我をエクスパンションする「おれが、おれが」の社会だった。でも、理想的には、ちょうどいい塩梅に「おれも、あなたも」の社会であるべきなのだと思います。
 私は愛国主義者でも、天皇崇拝者でも、右翼でもありません。ただ「告げられたこと」として、受け止めて頂きたいのですが、日本はリアルに「神々(霊的なるもの)に護られし国」です。(沖縄には沖縄の神様=守護霊集団が、アイヌにはアイヌの神様=カムイがいます)大洪水が来ても、日本はほぼ無傷で残ります。そして、恐らくは「大洪水後」の新しい世界は、「ちょうどいい塩梅」を判断することの出来る日本が主導して創って(創り直して)行かなければならいのだと思います。

*『それぞれの職務(ミッション)』

 釈迦は血と汗と努力で「悟り」を開いた人ですから、たぶん違うとは思うのですが、古くはノアやモーセやイエス、ムハンマド、中世ではジャンヌ・ダルクやスヴェーデンボリ、近年ではベストセラー・シリーズ『神との対話』を書いたニール・ドナルド・ウォルシュや新宗教、新興宗教の開祖と言われる人々は(完全なまがいものは多々あるにせよ)、何がしかの私と同じ「霊的なコネクト」を体験した人間なのだと思います。西洋圏の人種は「キリスト教(聖書)」が基本コンセプト(前提的な概念)としてあるので、「霊的なコネクト」=「神の声」になるわけですが、「霊(霊団)」というのは、個々に、まさに人間と同じように「キャラクター」を持つ存在ですから、大きい霊に「コネクト」する人もいれば、小さい「霊」にコネクトする人もいるし、悪い霊にコネクトする人もいれば、善的な霊にコネクトする人もいる。当然、西洋的な霊も、中東的な霊も、東洋的な霊もいるでしょうし、私のように「純和風な霊」とコネクトする人もいるでしょう。
当然「霊」によって考え方も言うことも変わりますが、善的な霊が目指している方向性は同じ。「眼に見える世界」をちゃんと平和で自然な社会に正すことです。善的に大きな霊は、その目的のために、人間にコネクトするのです。
受容性の強い、自己犠牲的な人、困難な人生を送って来た人は「善的な霊」にコネクトされやすく、自意識が強く、利己的な人、欲深い人間は「悪い方」にコネクトされやすい。(ただし、ある種の子ども、特に10代までは「悪い方」に狙われやすいので注意が必要です。すべてを精神疾患、脳機能障害に還元しようと考えるのは「科学教」の安易な悪癖です。あまりにも常軌を逸した猟奇殺人等は、リアルに「悪霊の憑依」を疑った方が良いケースもあると思います)
ただ、例え「善的」(かつ、不本意)ではあっても「霊とのコネクト」が私と同じように「パーフェクト憑依」のレベルまで行ってしまうと、それは、もう、単なる「霊のツール(操り人形)」として利用されるだけですから、イエスのように磔(ハリツケ)になったり、ジャンヌ・ダルクのように火刑に処せられたり、「霊的な導き」があったからと言って、必ずしも「祝福」される(人生を送る)わけでもない。
フランスの片田舎の農夫の娘でしかないジャンヌ(1412-1431/19歳で没)は、「神の導き」によって先陣を切ってイングランド軍とオルレアンで戦いながら、「今、武器を置いて、普通の娘として家族や友人と過ごすことが出来るのなら、どんなに幸せなことでしょう」という意味の言葉を書き残していますが、この気持ち、感覚は、私には痛いほどよく分かります。
イエスが「神(霊)の導き」によって使い回されたあげく、見捨てられ、最後に「おお、神よ!(なんで、こんなにがんばって来たのに・・・泣)と、嘆いた気持ちも、まことに僭越ながら良く分かります。
 いったん、完全に「憑依」されてしまったら、自分の意志とは無関係に「やらざるを得ない」のです。
平時では、どんなに苦しい試練、仕事であっても、「止める」「降りる」という選択肢(逃げ道)は常に残されています。しかし、戦時(戦争下)で、もっとも辛く、苦しいのは「(敵を、人間を)殺したくなくても、殺さざるを得ない」という状況です。そこに自由意志による選択権は存在しない。人間にとって、もっとも過酷な苦難とは「自由意志の剥奪」です。守るべき家族がいたら、「自殺する」という「逃げ道(自由意志/選択権)」ですら閉ざされてしまう。

よく、受験勉強や仕事や競技で「これは、戦争だ!」という表現をします。でも、そこに「止める」「降りる」という選択肢が残されている限り、それは「戦争」ではない。そんなに苦しいのならば、止めればいい。止めて困るなら死ねばいい。そこで、死ぬことすら許されないのが、本当の意味での「戦争」です。

 そのような意味において、私にとって、この2年間の作業は、まさしく「魂の戦争」でした。
 2014年11月15日、午前2時。私は今、普通の自我を取り戻し「鈴木剛介」という名前の、ただの一人の人間として、PCのキーを叩いています。
「リアル・マテリアル」の世界において、私の人生が、イエスやジャンヌのように「霊のツール」として(耐用年数を超えて)使い捨てられ「バッド・エンド」を迎えるのか、それとも「ハッピーエンド」を迎えるのか、はたまた今後は世俗的に生き、そして死ぬのかは分かりません。いずれにせよ、イエスもジャンヌも実質的な活動期間は約2年。すなわち、私がここに(賞味期限が切れて)「天命」を果たし終えた(お役御免になった)ことは確かなのだと思います。
だから、今私は「天命」としてではなく、一人の夢見る「少年」として『ハートメイカー』という本が世界中で読まれたらいいな・・・と願っています。
この本を(大洪水予測も含めて)「正しいか、間違っているか」という視点で読まないで下さい。この本を世界中の人が読んだら、世界はどう変わるのか、と、考えてみて下さい。そして「善い方向に変わる」と思われたら「ご縁」のある方に、ぜひ、この本を勧めて下さい。「何も変わらない」もしくは「面白くない」「共感できない」と感じたら、無視して頂いて結構ですから。
 私を信仰して欲しいわけではないのです。ただ、霊力の宿った、この本の持つ「力(言霊)」を信じて欲しいのです。あなた自身が「ストレス・フリー」になることが出来る社会を実現するために。幸福な社会を作るのか、不幸な社会を作るのか、それは、みなさんの心の持ち方一つで決まります。あなたも「世界」という組織の一員(メンバー)であることを忘れないで下さい。「世界」とは、「マネー・ゲーム」をするための巨大サークルではありません。あくまで「世界平和」という目的(ミッション)を実現するための「組織」なのです。70億人で編成された「チーム」が力を合わせれば、出来ないこと(不可能)なんてありません。
 個人個人がまとう「気」の流れが変われば、社会の「気」も正される。社会の「気」が正しく循環しはじめれば、世界情勢も「上」を向く。人類全体の運気が上がれば、地球の運気も上がる。地球の運気が上がれば大洪水も来ない。少なくとも、私は地球の「重力バランス」が崩れない(天体運行が誤差を生じない)ことを切に願います。人間は、生身の肉体を持つ人生をまっとうすべきだと思うから。そして、例え形はどうであれ、自分が生きている、この社会が、自然が愛おしいから。恐らくは、多くの方々と同じように。
世界を正すために「天(善的な霊)」からあなたに授けられたミッションは、ただ一つ。「心の声」に耳を傾け、「思い」を「言葉」に変え、「言葉」を「行動」に移すことだけ。
対立する「敵」がいたら、相手を批判し、貶め、銃を向けるのではなく、互いにハグを交わし、相手を強く抱き締めればいい。「言葉」なんていらない。政治家にだって、テロリストにだって、ギャングやヤクザにだって、企業にだって、夫婦にだって、親子だって、それくらいことは出来るはずです。だって、みんな「人間」という名前(組織)の同じ「仲間(チーム・メンバー)」なのだから。

*『エピローグ』

2年という月日の間に『ハートメイカー』は少しずつ少しずつ成長し、「初版」「改訂版」「完全版」と三度の大きな脱皮を繰り返した末、ようやくサナギから蝶になりました。それは、まさしく私の脳の中で「情報体としての生命」が古い殻を脱ぎ捨て、進化して行く姿、そのものだった。彼らが、なぜ、はじめから「最終形」を見せてくれなかったのか、すべてが終わってから「種明かし」をしたのかは分からない。ただ、私にそうした「試練」を課すことが彼らにとっては必要だったのでしょう。恐らくは、人々をどこかに導くために。
この本を書いたのが誰にせよ『ハートメイカー(心を創造するもの)』という名を授けられた一匹の蝶が大空へと羽ばたき、やがて新天地(新世界)へと辿り着くことを、一人の、ただの人間として祈っています。もしかしたら、この本は、新しく生まれ変わった地球で人々が新世界を創るために運ばれる「種(指南書/教本/教科書/バイブル)」なのかも知れない。人間を、間違った世界に後戻りさせないための。次の5千年期を生身の人間が幸せに暮らすための。

 そう、恐らくは、この本そのものが「ノアの箱舟」=「未来の設計図」なのだろうと思う。この本は宗教書ではない。むしろ、次の世代に「宗教」を作らせないための本(マニュアル・ブック)。「科学」という名の宗教も、「国家」という名の宗教も、「金」という名の宗教も、「家族」という名の宗教も、そして「人間」という名の宗教も。

 もし、この世界が単なる「仮想現実」に過ぎないのだとしたら、私がこの本を書くことの意味は、本質的にはないのかも知れない。でも、一方で、この人智を超えた煉獄の中で書き上げた本には「現実」の中でストレスを抱えながら生きる人々を救う「力」があるのだと信じたい。
最後の最後になって、陳腐で常識的で当たり前の結論になってしまいますが、でも、人間にとって一番大事にしなければならないもの。見失ってはいけないもの。そして、指針となるもの。それは、金でも技術でも知性でもなく、やはり「愛(自分と他人を思いやる心/温かいハート)」なのだと思います。
 世界中の人々に、すべての生きとし生けるものに、そしてすべての存在に「愛」がともにあらんことを。

Let’s make “HEART” & May the “LOVE”be with us!!

★    ★ ★

★本書に共感し、本書の普及にご協力頂ける方を、切実に求めております。本原稿の出版から「世界平和」の成就につなげることが、最終的な目標(ゴール)です。ぜひ、ご意見をお聞かせ下さい。
gosuke@gps1999.com

『ハートメイカー』 了

9:霊から授かったマニュアル


*『イントロダクション』

すべての原稿を書き終えた後、私に最後の「閃き」が訪れました。ようやくすべてのカラクリが分かった。
これまでに書いて来たことも、我ながら、まるで別の惑星に住む異星人が書いた文章のように変だ、妙だ、という感覚(実感)は持っていたのですが、これから書くことは、さらに読者を困惑させると思う。
最後になってようやく分かったこと。それは、私が「覚醒して悟りを開いたニュータイプ」ではなく、単なる「コネクター」、つまり霊界と現生をつなぐパイプであり、霊界からのメッセージを伝えるメッセンジャーだった、ということです。場合によっては、人はそうした存在を「ユタ」「イタコ」「シャーマン」「ミディアム」「霊媒師」「預言者」と呼ぶでしょう。でも、呼び方なんて、何だっていいのです。私は、これまで大いなる勘違いをしていました。『ハートメイカー』は、「見えてしまったもの」について私が書いた本ではなく、「見せられ、書かされた」本だったのです。この本の中で読者に向けて「あなたは・・・」と語り掛けているのは、著者である私(鈴木剛介)ではなく、あちら側の世界にいる何者かです。そして、その「何者か」は、かなり大きな霊的存在です。
奇異に聞こえることは重々承知しています。ただ、これまで書いて来たことがすべて「理屈で考えたこと」ではなく「見えてしまったこと」「分かってしまったこと」だったように、最後の種明かし、最後の「答え」もまた、ただ「知らされた」「告げられた」のです。そして、そう考えれば、奥多摩以降に私に起こった不思議な出来事、不可解な現象の連続は最初から最後まで完璧に筋が通る。
これまで、自分がふと抱いた疑念には、すべて「答え」が与えられて来ました。でも「霊界」というものが、もし、本当に存在するのなら、その仕組みだけがどうしても分からなかった。ラスト・チャプターでスピリチュアルについて言及しながらも、「これは完全な答えじゃない」「これでは全部説明したことにならない」という、ある種のフラストレーションを抱えていました。最後に与えられたのが、その「答え」です。
今、まさに書いているこの文章も含めて、私が意図して、考えて書いた文章というのは、この本の中にほぼ一行も存在しません。ある意味では、自動書記状態で書いています。もちろん、文章の流れや、構成をまとめるための推敲は死ぬほど繰り返しているけれど(一応、元作家だから)、その推敲作業も考えてやっているわけではなく、直感や閃きで行っています。(これは作家的な本能なのかも知れないけれど、文章がちゃんと正しい形にまとまった時は「正しい形にまとまった」ということが分かるのです)だから、とても孤独で、苦しく、しんどい作業ではありましたが、私がこの『ハートメイカー』シリーズを書く上で、唯一、意識して行っていた努力は「出来るだけ考えない」ということだけでした。
「自動書記」と表現してしまうと、何かに憑依されてトランス状態に陥った人の手が勝手に動き出す、というイメージをされてしまいそうですが、何というか、最後の最後になって「種明かし」されたら「あら、おれが自分で書いていたわけじゃなかったのね・・・」という感じです。だから今となっては、誰にどう、この本を酷評されようが、批判されようが痛くもかゆくもない。なぜなら、これは、おれが書いた本じゃないから(笑)。以下の文章も、そうした前提を踏まえて読んで頂けると嬉しいです。まあ、ある意味では、これがこの本の「オチ」「トリックの種明かし」。
こういう表現はすごくしたくないのだけど、以下に書くことは、鈴木剛介の意見ではなく、「かなり大きめの霊的存在が語り掛けていること」として受け止めて下さい。

*『霊的なこと、宗教的なこと』

現代社会に生きる我々は「自然/超自然(ナチュラル/スーパー・ナチュラル)」、もしくは「この世/あの世」と区別して考えています。でも「科学至上主義」が世界を席巻するまでは、この世界はもっと混沌としており、人も霊も神々も一緒くたになって共存していたのです。そう、宮崎駿監督が描いた『千と千尋の神隠し』や『もののけ姫』の世界観と同じように。
分かってしまったこととしか言いようがないのですが、霊的な存在は「全知全能の唯一神GOD」ではないから、自然現象をコントロールすることは出来ない。祈りを捧げたからと言って、雨を降らせることは出来ないし、死者をよみがえらせることも出来ないし、洪水を堰き止めることも出来ない。彼ら(彼女ら)は、ただ、メッセージを伝えるだけです。もしくは、人をどこかに導いたり、誰かと誰かを引き寄せたり、生身の人間のバックアップ的存在として守護し、慰め、癒す。彼らの力を借りれば、ヒーリング能力や予知能力、彼らの世界を垣間見る力を得ることも出来る。逆に言えば「良い霊」と「悪い霊」、「聖的な存在」と「邪悪な存在」、「祝福された者」と「呪われた者」もいるのでしょう。眼には見えない、何か大きな存在に守護され、祝福されることもある一方で、「悪霊に取りつかれる」という現象も、実際に起こり得る。だから場合によっては「除霊」という行為(儀式)は必要です。ただ、そうしたことを行う「力」を本当に持った人間は、ごくごく限られています。金を取る霊能者は信用しない方がいい。もともとそういう力を持っていたとしても、その力を金のために使うようになったら、その力は失われる。なぜなら、超自然的な力、霊能、サイキックは自分の意思でどうこう出来る能力ではなく「授けられた力」だからです。それは、人を助けるために、人を救うために授けられたギフト。その力自体が目的化したら、力は「自分のための商売道具」になってしまう。
「手相見」「顔相見」「占星術」「タロット」等はある種のロジック(古代の理論/科学)だから、その知識でいくら金を稼ごうが悪いことではありません。それは例えば、プログラマーや料理人と同じ、専門技術だから、技術を金で売ること自体には何の問題もない。
ただ、例えば、読経やお祓い、ミサなど宗教的な儀式(スタイルとしての技術)に高額を支払う必要はありません。戒名の料金が100円でも100万円でも、効果はまったく変わらないし、教祖様に捧げ、貢ぐ金額がいくらであれ、今生で得られる利益にも、来生の幸福にも、まったく影響はありません。金額の多寡と、宗教的、霊的な力は絶対に比例しないし、関係しない。生活の糧として、そうした力を使わざるを得ない場合もあるだろうけど、霊や宗教で金を儲けているヤツがいたら、そいつは間違いなく欲深い、悪者です。なぜなら「本物(リアルディール)」は、金のためにそうした「力」を使ったら、「力」が失われることを、ちゃんと知っているからです。「霊」の反対語は「金」、「霊界」の対面にあるのが「経済界」です。
とは言え、先祖はちゃんと供養した方がいいです。冠婚葬祭において、宗教的なスタイル(仏式、キリスト教、神道など)は無意味だけど、主人公となる人と親しい人たちが集まって、祝うべきことを祝ったり、死者をあの世に送り出す「集い」はやった方がいい。墓に参るか、参らないかはどっちでもいいけど、気持ちの上で、先祖を敬い、感謝を捧げ、定期的に死者に意識を向けて、きちんとその時の思いを伝えることは必要です。あなたが手を合わせる、その物理的対象の上に、先祖の魂はちゃんと存在している。スタイル、形式なんて、どうだっていいのです。大切なのは、素直な気持ちで先祖に思いを届けること。そして、親しい人が亡くなったら、涙で引き止めるのではなく、「良かったね、これで楽になるね」という明るい気持ちで送り出してあげましょう。その方が、死者もすっきり肉体の呪縛を解き、俗世を離れて昇天して行くことが出来ます。死者がこの世に未練を残すと、その思いは怨念となって、よくない働きをする。フツーの人の、常識の範囲内での肉体の死を悲しむ必要はまったくありません。例え犯罪者でも魂が綺麗な人はたくさんいる。逆に、例え善人面をしていたとしも、邪悪な者の魂は「正しい力」の強い人の手を借りて、きちんと成仏(浄化)させる必要がある。不慮の死を遂げた人の魂も、きちんと成仏させて(親しい人間が優しく慰めて)あげましょう。
「眼には見えないもの、手で触れることができないもの」をないがしろにしない方がいい。
「超自然的な存在」を「霊」「神」という言葉で表現してしまうと、どうしても、おどろおどろしく、いかわがしいイメージが付きまとってしまいますが、存在の種類(ジャンル)としては「眼に見えないタイプの人間」と考えた方がいいかも知れない。肌が黒い人間も、肌の白い人間もいるように、眼に見える人間も、眼に見えない人間もいるのです。そして、生身の人間にもキャラクターがあるように、眼に見えない人々にも、各々、キャラクターがある。生身の人間に「100%の善人」も「100%の悪人」もいないように、眼に見えない世界においても「絶対善」や「絶対悪」は存在しない。彼ら(彼女ら)は、「眼には見えない」「肉体を持っていない」というだけで、「意識体」としては、人間と同じ性質を有した存在と受け止めた方がいいと思います。
例え悪いことが起こっても、霊に依存し、何でもかんでも霊のせいにせず、「善い霊」も「悪い霊」も、自分と対等なパートナーと考えるべきです。
生身の人間と生身の人間の絆をつなぎ、濃く、深い人間関係を形成しているのは、物理的な血縁ではなく、「霊的なネットワーク」です。だから、血縁というのは、あまり、本質的でも重要でもない。もし、「この人とは確かに縁がある」「赤い糸で結ばれている」と感じる人がいたら、その人間関係は大事にした方がいい。また、もし自分の身近にいる動物(ペット)、さらに言うならば植物、物、機械(存在と呼び得るものすべて)と、心と心がつながる感じ、深い絆を感じるなら、それもまた「霊的なネットワーク」です。そして、「どうにも肌が合わない」「理由はないのだけど好きになれない」という人がいたら、あまり関わらない方がいい。「霊的なネットワーク」は、大まかに言うと、自分を中心点として「近い存在」「普通の存在」「遠い存在」くらいの三重の円(サークル)で、そのサークルを一つのユニット(一単位)として、インターネットのように、個々のシステム(ファクター)が相互リンクし、無限のネットワークを形成している。
その霊的なネットワークの中で、誰がどの辺りのサークルに属しているか(近いか、遠いのか)、自分の人間関係の中で(夫婦、親子、家族も含めて)、誰と誰と誰との「縁」が強いか(引き寄せられているか)、それは見極めた方がいい。そうすれば人間関係はスムースに、円滑に流れます。逆に、例え相手がどれほど社会的に偉い相手、人格的に優れていると思う相手でも、霊的に「縁」のない人と無理やり縁を結ぼう(人間関係をつなごう、コネクトしよう)とすると、あまり良くないことが起こる、嫌な気持ちになる、ストレスが増えると思います。ちなみに、自分が正真正銘の危機に陥った時、助けてくれる人、物理的(経済的)に手を差し伸べてはくれなくても、自分を否定しなかった人、受容してくれた人が「縁の強い人」です。もちろん、その相手との縁に自信が持てないこと、信用が揺らぐこともあるだろうけど、その縁を切ってしまってはダメです。切れてしまうことはあるだろうけど、自分から切ってはいけない。誰にだって出来ることと出来ないことがあります。どんなに親しい間柄でも、相手に出来ないことまで求めてはいけない。
「血縁」なんて、どうだっていいのです。「仲間」でいられるかどうかが問題なのです。
そして、日々の暮らしの中でも、良い日と悪い日、物事がうまく流れる時(ターム)と流れない時期はあります。それは霊的な、というよりも自然界の「気」の流れのようなもの(フロー)だから、無理に抗ってどうこうしようとはせずに、良くても悪くても受け入れてしまった方がいい。気の流れの悪い日は「ああ、もう今日はダメだな。仕方ないや」と思って割り切ってしまい、気の流れのいい日は、何も考えず、気楽に楽しく過ごせばいい。調子のいい時も、調子に乗って、無理やり何かを動かそうとはせず、自分の気の進まないこと、楽しくないことは、やらない方がいいです。理性の力や経済的、物理的な力(パワー)で、無理やり何かを動かそうとすると、一時的な得はあっても、必ず、最終的には悪い結果が待っています。
受験や恋愛の成就を書いた絵馬にも、おみくじやお守りにも、お賽銭を投げ入れる行為にも、ご利益は宿りませんし、何の力も効果もありません。それは、大昔の儀式が単に形骸化した単なる商品であり、金を出せばどこででも手に入るような物には、眼に見えない力は宿らない。それで自分の気持ちが落ち着くのならば、無意味なものに金を使うことを否定はしませんが、個人の利益や欲得のために神の力にすがろうとすると、悪い霊を呼び寄せます。また、きちんと感謝の気持ちを持った上で、自分が生きて行くために他の生命を殺生することには何の罪もありませんが、利益や欲得のために殺生をすれば、その行いや気持ちもまた、悪い気を呼び込み(悪い気の流れを作り)ます。
ブランドや知名度を持つ、ほとんどの神社やお寺、教会は単に形式的な存在で、特にその場所(地)に何かが宿っているわけではないから、敬う必要はありません。自分の先祖も含めて、何かの思いが祀られ、供養されている場所(ポイント)だけ、心を込めてリスペクトすればいい。由緒のある、歴史の長い場所には、多くの人の念や思いが宿っているので、そうした場所も大切にする必要があります。逆に、自分とは縁もゆかりない場所で、形式的にお清めやお賽銭をしたり、祈りを捧げても意味はない。また「神話」や「宗教的逸話」は、「1」の話が「100万」くらいに「盛られた」エピソードと考えた方がいい。人間には、手をかざしたり、手を当てたりすることによって「気」を与えるヒーリング能力はあるけれど、死者を(肉体的に)よみがえらせたり、水をワインに変えたり、海を真っ二つに割ったりする力はありません。死者の魂を呼び、話を聞くことは出来るけど。

*『男と女』

もしも、容姿や特技や学歴に関係なく女性に好かれたいのならば、ひたすら相手を受容することです。打算やブランドを取り払えば、女性は、自分の言葉に真剣に耳を傾け、自分を理解し、受け入れてくれる男を好きになります。もし、あなたが彼女をベッドに誘うためのテクニックとしてではなく、本心から彼女を受容して(恋してではなく愛して)あげることが出来れば、そうして結ばれた二人はきっと上手く行く。幸せになることが出来る。
優しい愛より、激しい愛の方が楽しいです、一時の激情で駆け落ちするのも心中するのも、不倫相手の子どもを出産してしまうのも、人生のドラマでありロマンではありますが、動物的な繁殖欲求のみに従って行動すると、必ず後悔します。なぜなら、繁殖欲求(恋)は、繁殖したらそこで終りだから。
繁殖欲求で恋に落ちた女性は、愛したら愛した分だけ、その量が、憎しみに反転します。恋に溺れた女性に求愛されたら、愛された男は、愛された分だけ、後で憎まれると思った方がいい。女性は、自分から振った男に対してはマシンのようにドライになれますが、自分が深い愛を抱いた男に裏切られたり、プライドを傷付けられたり、自分が振られたりしたら、彼女の愛は怨念に転化されます。駆け落ちするのは個人の勝手です。でも、駆け落ちした恋は、100%続きません。不倫はとても楽しいだろうけど、不倫相手と結婚したら、その愛も100%続かない。一時的には盛り上がるだろうけど、後になって、自分を一番分かってくれていたあの人が、必ず恋しくなります。「悪い」と分かっていることはやらない方がいい。
色恋の情の流れは、単なる繁殖欲求だから身を委ねてはいけない。「恋」か「愛」かの見極めが肝心です。
人間の身体には小便や大便の他にも、性的な物質が蓄積されて行きます。女性は「生理」という形でそうした性的物質を自動的に排出出来ますが、男性は自分で意識しないと排出できません。必ずしも、その排出先が女性の膣内である必要はありませんが、溜まったものはきちんと排出しないと便秘と同じように病気になります。性的な欲求は自然の摂理です。性欲や、男性の自慰行為を否定的な眼で嫌悪するのは止めましょう。もっとも、適切な性欲の解消方法はセックス(交尾)ですが、性的な物質が体内に溜まるたびにセックス(繁殖)をしていたら、子どもが増えすぎてしまい、生態系のバランスを崩します。人間は、言語を有したことにより、本能が理性に抑圧され、発情期を失いました。本能を否定するのは悪い考え方ですが、性欲は自分の意志で、きちんとコントロールしましょう。理性の強い(知的傾向が強い)人間の本能が抑圧されて、性欲の傾向が歪むのは仕方のないことでもあります。カボチャの上にレンガを載せたら、カボチャは「ぐちゃっ」と潰れます。精神的なレンガを抱えない肉体労働者の性欲は健康的ですが、知的生産性の高い職種の人間は変態的性癖を持ちやすい。性欲が歪むこと自体は、ある程度仕方ないとあきらめて、「変態」の方も社会的に問題のない範囲ならば、悩んだり、自分を責めず、おおらかに、肯定的に自分を慰めましょう。
人間は、公衆の面前でおおらかにセックスをする動物の姿を見て苦笑しますが、人目をはばかって行う人間のセックスの方が、よほど自然に反した、歪んだ性行為です。もし、路上で惚れあった者同士が公衆の面前でも人目を気にせず(避妊した上で)おおらかにセックスをすることが出来るようになれば、社会はもっと健全になります。そして、人間がみんな裸で暮らしていれば、レイプも痴漢も不倫の泥沼も、この世から消えてなくなります。
「メスを力付くで制圧し、子種を植え付け、繁殖したい」というのは、オスが脳の根底で持つ、普遍的な本能です。そうした本能が「レイプ」という形で表出してしまうのは、それだけ本能が抑圧され、歪んでいるからです。「レイプ」という犯罪を犯した人間、もしくは犯しそうな人間に対しては、性欲を去勢し、罰し、常識の枠を強制するより、抑圧され、歪んでしまった性欲を解放してあげた方が「まっとうな社会人」に戻りやすくなります。

*『良いこと、悪いこと』

「神はいるの? いないの?」「安楽死は○それとも×?」「子どもを褒めて育てるのは良いこと? 悪いこと?」という二者択一を迫る形で、人は極論(黒か白か)に走りがちですが、「絶対にいい」とか「絶対に悪い」ということはないのです。極端な話をすれば、ある人間を殺してしまった方が(本人のためにも、他者のためにも)いい場合もある。もちろん、本質的には人に人を裁く権利はありません。ただ、何事も白か黒かではなく、臨機応変に自然の声に耳を傾け、ほどほど、ちょうどいいバランスを判断しましょう。「全知全能の唯一絶対神」はいないけど「霊的なるもの」は存在する。どちらも「神」と言えば「神」です。安楽死がいいか、悪いかはケース・バイ・ケースだし、子どもは褒めたり、叱ったりしながら育てれればいいのです。
西洋医学が「絶対に正しい」わけではないし、西洋医学を全否定することも間違っています。西洋医学には良いところも悪いところもある。何事に付け、同じです。「陰陽」の太極図は、真っ白になることも、真っ黒になることもありません。でも、オセロは「黒」か「白」です。多くの映画、ドラマは「善人」と「悪人」の闘いです。現代社会は、あまりにも二極対立構造に慣れ過ぎてしまっています。
現代社会の根底にある価値観(パラダイム)は相対主義だから、私たちは無意識に「良いこと」「悪いこと」「正しいこと」「間違っていること」の判断基準なんてない。と思いがちですが、「良いこと」「正しいこと」はちゃんとあります。自然の摂理に叶った、生態系の流れに沿ったことが「良いこと」「正しいこと」であり、自然の流れを人間が理性で捻じ曲げたことが「悪いこと」「間違ったこと」です。パンク・ロックやヘヴィ・メタルは一見「ワル」ですが、その歌詞の内容がどうであれ、ロックが刻むビートやウェイブが、心臓の鼓動、動物身体が内在するリズムにシンクロしていれば、それは「良い音楽」です。逆に、癒し感満点の、いかにもなヒーリング・ミュージックでも、それが作為を持って作られた(端的に言えば、金のために作られた)音楽なら、人間に悪い作用をもたらします。音楽のリズムや旋律は頭で作るものではなく、身体感覚で作るものだから「良い音」と「悪い音」は、ちゃんと本能が知っている。ただ、人間が内在しているリズムは個人個人によって違います。仕事であれ、スポーツであれ、自分のリズムを相手に押し付け、強制することは止めた方がいい。
例え、暗い森のざわめきや、荒れる海の波音であれ、自然の発する音はすべからく「良い」。ただ、自然の発する音の意味や予兆には注意を払った方がいい。動物のリズムに合っていない(シンクロしない)、工事現場や高速道路の人工的な爆音は心身に悪い影響を及ぼします。ストレス解消(心のバインドを緩める)のための喫煙は心身に悪影響を及ぼさないけど、ケミカルな物質に依存した喫煙なら止めた方がいい。酒(アルコール)も同じです。楽しい、嬉しいなら吸ったり、飲んだりしていいけど、心身に負荷が掛かる苦しいことならやらない方がいい。
やりたくないことならやらなければいいし、やりたいことならすればいい。そうすれば、ストレス・フリーで楽しく生きて行くことが出来ます。「やるべきことをやらない(義務を果たさない)」のが「悪いこと」ではなく、「理屈をこねくり回す」のが「悪いこと」です。
自分が正しいことをしているのか、間違ったことをしているのか、ということは、誰しも、心の奥底で分かっています。
良いこと、悪いこと、正しいこと、間違っていること、というのは、生まれた時から、ちゃんと心は知っています。それを屁理屈で粉飾しようとするから、世の中ややこしくなるのです。
現代社会は「人間脳で考えた理性的なもの=○」「本能に従順で野生的なもの=×」という価値観です。でも、あえて○か×で言うのならば「本能に素直で野性的なもの=○」で「理性、理屈、論理、理論で作られたもの=×」です。一見「狩り(ハント)」が凶暴な行為に見えても、自分の欲得のために他の個体を無意味に殺す生物はいないし、どれほど凶暴な交尾、メスの取り合いに見えても、それはあくまで生態系の理に叶った性行為/繁殖活動。必要もないのに他の個体をレイプする野生動物もいません。司法も立法も行政もなくても、野生動物は、みな「正しく」生きています。
もちろん、人間が言葉を持った社会的生物である以上、野生に還る必要はありません。でも、「動物脳(本能):7割/人間脳(理性):3割」くらいのバランスを心がけて生きた方が、きっと人間は幸福な人生を送ることが出来ます。

*『生老病死』

Aさんがあなたを批判したり、悪口を言ったら、それはAさん自身が自分を守るためです。あなたが悪いわけではない。いちいち気にして自殺するのは止めましょう。叱られて、自分がもっともだ、と納得したら、自分の行いを改めればいい。自分が納得出来ない他人の意見には従わなくていい。医者が「食べるな」と言っても、自分の心身が求めているなら食べればいいし、「吸うな」と言っても、必要なら吸えばいい。
煙草が身体に「絶対に」悪いわけではない。ほどほどに吸っている分には何も問題ありません。単に「禁煙思想」を広めると、得をする人、利益を得る人がどこかにいる、というだけの話。禁煙ブームは単なるブームです。「喫煙は悪いことだ」という罪悪感で心をバインドしない方が健康にいい場合もあるし、人によっては煙草は必須の薬にもなる。ネイティブ・アメリカンは、みんな(ナチュラルな、自然素材の)煙草を(酒と同じように)人生の一つの喜び、楽しみとしながら、長生きしていたのです。健康に害を及ぼす煙草の成分は、人工煙草に含まれるケミカルな化合物質です。
何事に付け「絶対に良い」「絶対に悪い」というものはありません。どんなものでも、過剰に摂取すれば身体に悪いし、不足しても病気になります。例えば、ダイエットのためにせよ、食べるべき物を食べずに病気になるのは、身体の病気ではなく「気の病」です。考え方や生活を変えるだけで、健康は維持できるし、回復します。出来るだけ「自然」に近い生き方をすれば病気にはなりません。もし、都会の中で健康的なライフ・スタイルを維持したいのならば、スポーツ・ジムに通うことよりも、常に身体をリラックスさせ、力を抜いて生活する努力をしましょう。顔も身体も頭も、力んでいると強張ります。肉が強張ると血行の流れが悪くなる。血流の悪さは、万病の元です。
時には医者に頼んで「数」の意見を聞く必要もありますが、「数値」に頼らないと何も判断出来ない医者は、ヤブ医者です。なぜなら機械に数値を計測させて、その数値をマニュアルと照らし合わせるだけならば、誰にでも出来るからです。
医者が患者のコンディションを判断するためには、眼で見て触れて、推し測ることが基本です。コンピュータには人間の健康状態を(予測することは出来ても)理解することは出来ません。コンピュータをツールとして使うことは構いません。でも、何事に付け、「数」「数値」に依存して人間を判断するのは止めましょう。「数」「数値」よりも「直感」「感覚」「気分」「気持ち」の方が正しいことは、まま、あります。「数」や「数値」を押し付けて来る人(医者)は警戒した方がいい。
「数」や「数値」を気にして血糖値を下げることよりも、「数」や「数値」を気にしない方が健康にいい場合もあります。そうした判断を可能にするのは、医者の技術と知識ではなく、医者のキャリア(経験)と才能です。そして、大病院の医者ほど、技術と知識と数と薬に頼りがちです。
ガンが、あまりにも辛く、苦しいのならば、対処療法でしかない抗がん剤に救いを求めることを止め、楽に、幸せに逝く方法を考えるべきです。無理に長生きしなければならない義務は、どこにもない。満足する人生を送ることが出来たのなら、スッキリあの世に行きましょう。そして、未練に感じること、思い残したことがあるのなら、その「思い」は、きちんと遂げてから死にましょう。自分で遂げることが出来ない状態にあるのなら、人に頼んで遂げてもらいましょう。若い人が人生を簡単にあきらめてはいけません。でも、やるべきことやったのなら、いつ死んだって構わない。そういう思いで生きていた方が、自己実現する前も、自己実現した後も、ストレス・フリーに生きて行くことが出来ます。
肉体というのは、リアルに単なる魂の乗り物です。でも、自動車(ヴィークル)が故障したら運転手(パッセンジャー)も事故に遭うから、マシンのメンテナンスはちゃんとしておいた方がいい。寿命が来れば自動車は廃車になるけど、運転手は別の車に乗り換えることも出来る。自動車にはもう乗らない、という人もいるし、事故を起こして免停になる人もいる。速い車もあれば、遅い車もあるし、かっこいい車もあるし、ポンコツの車もある。車の美醜と運転手の美醜は関係ありません。性格の悪い運転手が高級外車に乗っている場合もたくさんあります。ただ、運転手は車を選ぶことは出来ない。なぜなら、眼に見えない世界には、車を買うための「金」という概念が存在しないから。物質世界と違って、金を払えば、かっこいい車に乗ることが出来る、というわけにはいかない。前世での行いや、霊的な、魂の白さ、清らかさと身体的な美醜は関係しません。ただ、マテリアルとしてのマシンを、磨いたり、色を塗り替えたりすることは出来る。ただし、車体の改造はあまりしない方がいい。
当然のことながら、女性の魂が男性のヴィークルに、男性の魂が女性のヴィークルに乗ってしまう場合も多々あります。ゲイやレズは性的な病気ではなく「魂の働きが強い人」と考えて下さい。また、人間の魂が必ずしも「ヒト型」のヴィークルに乗るとは限りません。もし、自分が飼っている犬やネコが「どう考えても、血のつながった本当の家族としか思えない」と感じるのであれば、そのペットは間違いなく前世で、あなたの家族だったのです。
パッセンジャー(魂)の良さ、清らかさ、温かさ、正しさ、という概念(価値観)は、眼には見えない世界にも確実に存在します。そうした「善的な性質」は、前世での因縁や今生で置かれた環境には関係なく、人間の「思い」一つで手に入れることが出来る。そして、「魂の持つ善性」は「霊的な力」になる。
せっかくの「善い魂、清い魂、白い魂」も、肉体を離れたいのに、無理やり肉体につなぎとめられていると、だんだん濁り、薄汚れて来ます。
どうしても生きていることが苦しいのならば、肉体の命を自ら断つのも、楽になる一つの手段です。生きることを簡単にあきらめてしまってはいけないけれど、単なる常識的な世界観で、すべての自殺を否定(抑圧/引き止め)しない方が、本人のためにも良い結果をもたらします。純粋に苦しいのか、単なる安易な逃避なのか、本人ではなく周囲の人が判断してあげましょう。リアル・マテリアルとしての世界だけがすべてではありません。「自殺=(魂の)リリース」と考えた方がいい場合もある。安楽死を安易に否定するのも止めましょう。魂がリリースされたがっているのに、延命医療で無理やり肉体の生命維持を行うのは単なる拷問です。延命するかどうかの判断は簡単です。近親者の勝手な思いや都合で延命するのは悪い行い。周囲の人間が「早く楽にしてあげたい」と感じたら「楽にして」あげればいいのです。出来るだけ理屈で考えることを止め、素直で自然なシチュエーションを選択して行けば間違いない。
ちょっと痛いから、ちょっと辛いからと言って、安易にケミカルな薬に頼ってはいけません。人を救う薬も確かにあるけれど、人々の不安を煽(あお)ることによって、人為的に病気(のジャンル、名前)を作り出し、金を稼ぐために存在する薬もある。自分の身体のことは、自分が一番よく知っています。医者の診察を仰ぐ前に、自分で自分の身体の声に耳を傾けて下さい。大きなケガは医者にしか治すことは出来ないけれど、「病気」は本質的に「気の病」です。安易に医者に頼ることを止め、自分で自分の心身を整えることを考えて下さい。肩こりを治すために、もっとも効果のある治療法は、マッサージ店に行くことではなく、運動することです。
人間という生物も、もともとは四足歩行していた動物でした。だから、無意識に人間身体は四足歩行に戻ろうとします。背中が内側に丸まり、猫背になるのは、ごく自然なことなのです。人間が一番、健康的にナチュラル、自然体で生活する理想的な姿勢は、四足で歩くことです。
世界には、ごく稀に、四足で暮らしている人もいます。トルコ、シリアにもいるし、日本にもいます。彼らが、人類の中で、もっとも健康的に生きている人です。ただ、現代社会で人間が四足で暮らすことは極めて困難です。二足歩行自体が自然の理に反した不自然な姿勢ですから、放っておいても首や肩、腰に負担がかかり痛くなるのは当たり前の現象です。意識して背筋を伸ばし、胸を張ろうとすると、余計な力みが生まれ、肉が強張り、血の巡りが悪くなります。もし、二足歩行のまま健康的に暮らしたければ、適度に運動しましょう。適度に運動していれば、身体は二足歩行でも自然なバランスを取るようになり、ボディ・ラインも美しくなります。美容エステや健康サプリなど「金で手に入るもの」で健康を維持しようとするのは、単なる手抜き、怠慢でしかありません。金とで技術で手に入れたボディ・ラインの美しさは、すぐに崩れます。
また、適度な運動を心がけるなら、わざわざ高いお金を出してスポーツ・ジムで同じ場所にある動く地面を走り続けるより、近所をウロウロ歩き回りましょう。「運動」とは「運ぶ、動かす」です。実際に、リアルに動くことが肝心です。ジムでマシンを動かして付けた筋肉より、工事現場で働くことによって付いた筋肉の方がよほど「リアル」です。自分の頭、手足を使うことを怠け、面倒くさがり、放棄して、金と技術とマニュアルで何でも解決しようとするのは、人間の悪いクセです。勉強であれ、運動であれ、金や他人の知識、技術、マニュアルによって手に入れたものには、何事に付け「本当の力」は宿りません。スポーツが上手くなりたいなら、コーチの意見を聞く前に、自分で自分の身体の特質、向き不向き、適切な運動量を、自分で考え、判断しましょう。
筋トレをした方がいいボクサーもいるし、しない方がいいボクサーもいる。必ずしも毎日、欠かさず10分歩く必要もないし、無理やり毎週10キロ走っていたら身体が故障する場合もあります。場合によっては、1年間、まったく動かず、家の中に閉じこもっていた方がいい時もあります。ケガを負った動物が、洞穴の中で食べもせずじっと動かないように、心に傷を負った時は、その心の傷が癒えるまで、シェルターに身を隠していた方がいい。何事も臨機応変、その時、その場所で適切な対応をしましょう。自分で自分の身体の声を聴こうとはせずに、他人の意見やマニュアルで「答え」を均一化することは止めた方がいい。緑黄色野菜、鉄分、塩分、ミネラル等が毎日同じバランス(配分)で必要なわけではありません。時には甘いケーキを山ほど食べた方が、高塩分の塩じゃけを食べ続けた方がいい場合もある。何でも均一にバランス良く摂取するのではなく、その時、その時で、身体が一番欲しているものを食べればいいのです。「何だか知らないけど、無性に焼肉が食べたい」と感じるなら、それが、その時、あなたの身体が求めている食べ物です。子どもの健康を本気で考えるならば、全校生徒が同じ栄養バランスの献立を食べるより、お母さんが子どもの体調を考えながら作ってくれたお弁当の方が良い。
人間の身体は、その土地、環境でとれる農作物に適応します。ササしか生えない土地に暮らす生き物はササに身体が適応するし、ユーカリばかりが生えている場所に生息している生き物はユーカリの成分に身体が適応する。ササ動物にユーカリを食べさせるのは健康に悪し、ユーカリ動物にササを食べさせるのも健康に悪い。日本に暮らす日本人が高価な輸入食材を摂取する必要はまったくありません。都会の日本人は、日本の田舎で捕れた米と肉と野菜を食べるのが一番です。
また野生動物は他の動物と触れ合いながら暮らしています。一匹オオカミと言えども、地球上に一匹で暮らすことは出来ません。日常化したセックスを無理に行う必要はありません。でも、親しい人とは肌と肌を触れ合い、出来るだけスキンシップをしましょう。そうすれば、心も身体も温かくなります。
子どもが「お腹が痛い」と訴えたら、薬を飲ませる前に、病院に連れて行く前に、お母さんの温かい手のひらを、優しい気持ちを込めて、子どものお腹に当てて下さい。大抵の腹痛は、それで治ります。